壊夜









 離れの部屋に閉じ込めてしまったのは、五嶺様をお守りするためだ。

 俺がそう決めたとき、左近は俺を非難するような目で見た。だが、俺は自分の意思を覆す気は無い。

 五嶺グループの実権を握り、実務を取り仕切るのは俺。俺無しでは五嶺グループは立ち行かぬと判っているから、誰も何も言わない。

 
 五嶺家の連中は、あのようなお姿になってしまった五嶺様を疎んじている。


 陀羅尼丸は、禁魔法律家などに誑かされ、潔く死を選ばなかった恥知らずだ。

 半霊になるなど、そんなみっともない目にあうなんて聞いた事も無い。あのような穢れた姿をさらすなど五嶺家の恥。いっそ死んでくれればよかったものを。


 陀羅尼丸などエビスにくれてやればいい。


 エビスが陀羅尼丸を殺そうがどうしようが、構うものか。五嶺家の家名を汚したんだ、当然の報いだよ。


 五嶺様の前で、口々に言う。
 五嶺様を罵る汚い言葉に、俺は耳を塞ぎたかった。


 エビスお前、あんな姿になった可愛そうな陀羅尼丸を捨てたりはしないよねぇ。

 陀羅尼丸は、お前にグループを頼むといったんだよ。

 おまえ、あの子にずいぶんとご執心だったそうじゃないか?

 おまえにやるよ。好きにしたらいい。


 だから、これからも良く五嶺家に仕えるんだよ。


 俺の機嫌を取ってるつもりの猫なで声。


 くたばれ、くたばってしまえ。全員死ね。

 内心の怒りを押し隠し、俺は卑屈な笑顔を浮かべて、「へい、ありがたき幸せ」と手を擦り合わせた。

 お前らに言われたからじゃない。俺は五嶺様をお守りするために、五嶺家に残る。

 五嶺様を罵ったクズどもからグループを乗っ取り、俺の意のままに操ってやるのだ。

 五嶺様を侮辱したお前らは、俺が後からゆっくり殺してやる。
  


 
 最初は、環境は変えぬほうが良いだろうと五嶺様がお使いになっていたお部屋をそのまま使っていたのだ。

 五嶺様は、昼間は大抵眠ってらっしゃる。

 たまに、お部屋に行くといらっしゃらないので驚いたら、天井の隅にいたりする。気分屋なのだ。

 ゆっくりとまばたきする。五嶺様の血の色をした目が俺を見つけると、ゆっくりと天井から降りてきて、俺に近づいてくる。凄く嬉しい。

 あまり強い日の光は苦手なようだが、ぽかぽか日和には部屋からのそりと出てきて日向ぼっこを楽しんでいる。

 五嶺家の猫たちは、変わり果てた五嶺様のお姿を見て、最初はふーっと毛を逆立てて警戒していたが、今ではすっかり元のように懐いている。日向ぼっこする五嶺様のお側に、猫が何匹も香箱座りをしているのはなかなか和む風景だ。

 五嶺様は、たまに歌も歌う。

 月夜の晩に、猫に囲まれ、うつ伏せになった五嶺様が、細い声で歌を歌っていたのを見たときは仰天した。

 もしや、正気を取り戻されたのかと思ったが、俺に気がつくと、歌を歌うのを止めてしまった。

 魔法律病院の治療師は、それは、正気を取り戻したのではなく、 猫、月、夜、などがキーワードとなって残っていた記憶を体が再現しただけに過ぎない。と言っていたのだが。

 五嶺様は、月夜の晩に猫に歌を聞かせた事があったのだろうか。

 ここにいるのに、ここにいない。俺の知らない五嶺様を見つけるたびに不思議な気持ちだ。

 そんな感じで、穏やかに日々は過ぎる。たまに、昔の五嶺様に戻ったかのような行動をとるので、俺は驚いたり、涙したりする。




 五嶺様が起きるのは、大抵夕方から夜にかけて。

 髪を結ばれるのは嫌いなようで、いくら俺がきちんとしても、次見たときは解けて乱れてしまっている。

 人で無くなった今も、不思議と髪だけは伸び続ける。

 五嶺様の伸びた髪は、腰を超えた。休みの日には、俺がゆっくりと風呂にいれ、髪を洗って差し上げる。

 半霊となってしまった五嶺様には、入浴も必要ないのだが。俺や周りの皆は、今でも五嶺様を人間と同じく扱っていた。

 五嶺様のため。というよりも、俺たちがそうしたかったのだ。




 俺が五嶺様のお部屋を鍵をつけた離れに移そうと決めたのは、五嶺様の部屋から慌てて飛び出して行った女中の後姿を見たからだった。

 この部屋には、普段から誰も近づくなと言いつけているのに。

 俺は嫌な予感がしながら、五嶺様のお部屋の襖を空けた。

 案の定。

 そこにいたのは、衣服を乱された五嶺様だったのだ。

 何をされたのか良く判っていないのか、ぼんやりとお座りになっている。

 上着だけでなく襦袢まで大きくはだけられ、ますます白くなった肌に、赤い口付けの跡が残っている。

 袴の紐は解かれ、引き摺り下ろされていた。

「五嶺様、大丈夫ですかっ!」

 俺が慌てて駆け寄っても、五嶺様は血の色をした瞳で俺をじっと見つめるだけ。

 その瞳には、理性も、感情も、人間らしいものはなにもない。

 空ろで、空っぽで、でも美しい。

 五嶺様の魂は、あの日食われてしまったのだ。

 MLSの元教師であった、トーマスとかいう禁魔法律家から五嶺様を助け出した時には、すでに元に戻れぬほど霊化は進んでいた。

 なんとか人の姿は取り戻したものの、心はすでに失われていたのだ。

 半霊というよりも、ほぼ霊体と言った方が正しい有様。


 なんてことを!

 俺は憤りながら、ふと、自分の中にわき起こる劣情に気がついた。


 これは、確認のためだ。

 五嶺様がなにをされたのか、確かめるだけだ。


 ごく。と唾を飲み込む音がやけに大きく聞こえた。

 五嶺様に近づき、そっと下腹部に手を差し入れる。

 上着、襦袢の下には何も身に付けておらず、襦袢を捲ってそれを握り締めると、あの女中にやられたのだろう。勃起していた。

 五嶺様はきょとんとした顔して、首をかしげたまま俺をじっと見ている。

「そ、そのままでは、お辛いでしょう……?」

 俺は、目を伏せて早口で言いながら、五嶺様を掴んで扱く。

 罪悪感はもちろんあった、だけど、そうしたいという欲望の方が勝る。

 ドキドキと心臓が早鐘を打つ。かぁっと頭に血が上る。

 五嶺様は、俺の愛撫に歓び、悦楽の表情を浮かべられた。長く伸びた舌で唇を舐める姿に、俺はどうしようもなく。

 欲情した。

 理性を失った五嶺様は、ただ俺の手が与える快感を本能のままに楽しんでいる。

 座ったまま足を広げ、背をそらす。

 「アハァ……」というかすかな声が唇から漏れる。五嶺様を愛撫する俺の手の動きが早くなる。

 やがて、勢い良く暖かいものが俺の手に出される。

 俺はそれを全て手のひらで受け止め、ゆっくりと手を開いた。

 俺の手に吐き出された五嶺様の欲望。

 俺は我慢できなくなり、手に吐き出された白い体液を夢中で舐め取った。

 ああ、五嶺様、五嶺様、五嶺様!

 自分が泣いていることに気がついた。

 目頭から熱いものが溢れてくる。俺は泣きながら五嶺様の吐き出したものを舐め、堪えきれずに嗚咽した。

「五嶺様、申し訳ございません」

 こみ上げてくる罪悪感に耐え切れず、がばっと五嶺様の前に俺は土下座した。

 五嶺様に劣情を抱いた事を恥じた。

「五嶺様をお守りすると誓ったのに、エビスは、エビスは。二度とこのようなことはいたしませんから、お許し下さい」

 額を畳に擦りつけ、俺はみっともなく涙を流しながら許しを乞うた。

 五嶺様がお返事をしてくださる訳が無いと判っていたが、そうしなければ、罪悪感で心がばらばらになってしまいそうだったのだ。


 お前のつまらんプライドなど知るものか。

 アタシは欲しいんだよぅ。


 頭の上からそう聞こえたような気がして、俺は一瞬全てを忘れ、思わず顔を上げて五嶺様を見た。

 五嶺様は、半裸の四つんばいでゆっくりと俺に近づき、ぺろ……と舌を伸ばして俺の涙を舐めた。

 五嶺様が、俺を見て唇の端を吊り上げて笑った……ような気がした。

 だって、五嶺様が笑うなんてありえないのだ。五嶺様の魂は蟲に食われてしまったのだから。笑うなどできるはずが無い。でもたしかに、俺には笑ったように見えた。

 五嶺様が、俺に見せ付けるように座り込んで足を開き、自身のものにお手を絡められた。

 手を上下させると、五嶺様自身が再び勃ち上がり、息が乱れ、赤い目が、快楽にとろりとした光を帯びる。

 
 だめだ。

 堕ちる。


 体の中から、どす黒い欲望が湧いてくる。

 欲しい、五嶺様が欲しい。

 かつて、五嶺様はあまりにも綺麗過ぎて、醜く地を這う地蟲のような俺には、見上げる事しか出来なかった。

 だが、今の五嶺様の様子はどうだ?

 いやらしい蟲に魂を食われ、理性をなくし、本能に従うだけの獣のような存在になってしまった。

 憧れだったあの方が、汚され、俺の手の届くところまで堕ちてきたのだ。

 五嶺様に抱いていた薄汚い欲望を、あの紫がかった綺麗な瞳に知られることは無い。軽蔑される事も、拒否される事も無い。五嶺様を自由に出来るのだ。


 欲しい、五嶺様が欲しい。と。


 あの女中は、誰よりも正直に自分のどす黒い欲望に従ったのだ。


 俺は、五嶺様にそっと近づいた。五嶺様は嫌がらない。

 五嶺様の足を割り、顔をもぐりこませる。

 舌を長く伸ばして、五嶺様のものの先端にそっと近づける。

 五嶺様は嫌がらない。

 ついに俺は、ぺろ……と五嶺様のものに舌を這わせた。

 ぴちゃぴちゃと舐めると、五嶺様の体がびくんと痙攣した。

 口に咥えて、吸い上げて、扱いて、しばらく執拗にそうしていると、五嶺様は俺の口の中で出されて、満足そうに喉を鳴らして飲み込む俺の頭を撫でた。

 いいこだねぃ、エビス。まるでそう言われている様だった。


 俺も同じだ、五嶺様に悪戯をしたあの女と。

 俺は、ずうっと胸に抱いていた、どす黒い欲望の従うままに、五嶺様を汚した。








「五嶺様、お腹が減ったでしょう? 昨日は何も食べてませんからね」

 俺は五嶺様のお住まいである離れの部屋の鍵を外し、中へ入った。この鍵は俺しか持っていない。

 五嶺様は外へ出たいときは鍵などものともせず外に出てしまうので、主に人を入れないための鍵だ。

 俺の姿を見つけた五嶺様が、四つんばいでゆっくりと這って来る。

 よかった。今日は機嫌が良いみたいだ。

 昨日なんか、ずっと無視されて泣きそうだったからな。

 俺が話しかけても、なにしても、撫でて欲しいと甘えた声を出して擦り寄る猫すらも無視して、ずっと月の下で俯く五嶺様のお姿は悲しすぎて俺は泣けた。

 半霊になってからも、相変わらず五嶺様に振り回される自分に苦笑した。

 俺は、五嶺様をそっと抱きしめ、五嶺様がお食事しやすいように、首を傾けて首筋を露にした。

「どうぞ」

 五嶺様の顔が俺の首筋に近づき、赤い舌がぺろりと俺の首筋を舐めた。

 煉の流れを探っているのだ。

 やがて、五嶺様が俺の首筋に吸い付く。

 急激に煉が吸い取られるのを感じ、俺は一瞬くらりとした。

 ほっておけば、俺が死ぬまで煉をもっていかれる。

 頃合を見て、俺は五嶺様から離れた。食い足りない五嶺様が、眉間に皺を寄せて「うう……」と小さくうなる。

「申し訳ございません五嶺様。物足りないでしょうが、今日はこれまでです。これ以上だと明日に差し支えるので」

 言いながら、俺は五嶺様の様子を伺う。本当に食い足りないようなら、二三人誰かの煉を食わせなければいけない。俺以外の誰かの煉を与えるのは嫌なのだが。

「ご不満でしょうが、エビスが働いて五嶺様を養わないといけないのです。だから我慢してくださいね」

 ゆっくりと髪の毛を撫でると、五嶺様は気持ち良さそうに目を細めた。

 俺は、丁寧に五嶺様の腰まで有る髪の毛を櫛でとかした後、衣服を脱がせる。

 五嶺様は、俺のされるがままだ。

 いや、俺が何をするか知っているから、その表情は悦んでいる。気持ち良いことが大好きなのだ。

 俺は、五嶺様の全身に舌を這わせる。

 何度も、しつこく、その綺麗な肢体をなめ回す。

 五嶺様は歓ばれ、くふぅんと鼻にかかった声を上げられる。

 髪が乱れて、白い体に纏わりつく。

 腰を揺らす、触って。というおねだりに、俺は五嶺様を扱き、口に入れ、二人で快楽をむさぼる。

 五嶺様も時折俺のを舐めてくださる。

 なんの気まぐれか、急にむくっと起き上がり、俺の股間に顔を近づけ、長い舌を出して俺に絡めるのだ。

 舐めて下さるのは良いが、口の中に入れようとするのは要注意だ。……噛まれる。

 頃合を見て、俺は五嶺様の中に己を挿れた。

 ず……と俺は五嶺様の中に己を差し入れると、五嶺様が仰け反った。

 五嶺様の中をえぐるように動く。五嶺様は、もっと、もっとと、俺の腰に脚を絡めて強請られる。






「エビスさん、あなた、離れのお部屋で五嶺様と何をなさっているのですか?」

 俺は知っているぞ。と言いたげな左近の言葉。

 毎夜五嶺様を抱く俺を責める目。 

「あのような不憫なお姿になられた五嶺様になんて酷い事を! 何をされているのか判らぬ赤子と一緒なのですよ!」

「左近」

 俺は、怒りに震える左近と対照的に、冷たい目で俺を責める左近を見返した。

「お前も犯りたいんだろ? 五嶺様を」

 お前だって、逆らえまいよ。


 五嶺様は、あの時確かに俺を誘った。

 五嶺様には、逆らえまいよ。

 例え罪悪感の地獄に落ちると判っていても。


「覗いたのか、ええ? 五嶺様と俺を」

 俺がそう言うと、ぐっと左近は言葉に詰まった。図星だったのだろう。

「そうだ、俺は、毎晩五嶺様を犯してる。見ただろ? 五嶺様だって歓んでる」

 左近は、聞きたくない。というように顔を背けた。

「綺麗だったろう? 五嶺様は。醜かっただろう? 五嶺様は。あの凛としていたお人が、俺なんかのものを咥えて、善がって涎垂らしてるんだぜ?」

「狂っている!」

 左近は叫んだ。

 何を今更。と俺は冷笑する。

 そんなの、前からじゃねぇか。

 五嶺様がいなくなってしまったの日から、とっくに狂っちまってるんだ。

 五嶺様が食われてしまった夜に、俺も壊れてしまったんだ。

 奇麗事を抜かす左近に、軽蔑の気持ちさえ持っていた俺の耳に、思いがけない左近の言葉が飛び込んでくる。

「そんな事をしても、傷つくのはあなただ!」








 五嶺様の白い胸の上に、ぽたぽたと俺の涙が落ちる。

 五嶺様は俺のことなどお構い無しにいやらしく腰を振り、俺を使って快楽をむさぼる。

 今の五嶺様にとっては、相手なんてどうでもいいのだ。左近だろうが、どこの馬の骨とも知れぬ女だろうが、犬だろうが、喜んで交わるに違いない。


 あんなに、綺麗だった五嶺様が。

 誰よりも高貴で、優雅で、俺の憧れだった五嶺様が。

  
「五嶺様、どうか、どうか、俺を救ってください」

 俺は、嗚咽しながら、五嶺様の中に己を突き立てた。辛いけれど、気持ちよくて止められない。

 ぐちゅ、ぐちゅ、と粘膜のこすれあういやらしい音が返事の代わりに返ってくる。

「く……」

 俺は、絶望に満ちた目で、快楽に溺れ、口から透明な涎を垂らしている五嶺様のお顔を覗き込む。

 またぽたぽたと熱い涙が五嶺様の顔に落ちたとき、赤い目の色がすうっと消えた。

「エ……ビス」

 俺の名を呼ぶ聞きなれた声。

 紫がかった瞳が俺を見上げる。

「五嶺様!」

 俺は息も止まりそうになり、喜びの余り、一瞬自分が今何をしているか忘れた。

「これは、一体……?」

 正気を取り戻された五嶺様は、ご自分と俺を見て、ご自分が何をされているのか悟られたようだった。

 体中から、血の気が引く。

 誇り高い五嶺様が俺に犯されている。耐え難い屈辱に違いない。

 俺の薄汚い欲望を知られてしまった。

 なんということだ!


「エビ……ス!」


 俺を見る五嶺様の目は、憎しみと軽蔑に満ちていた。

 知られた。知られてしまった。

 一番、知られたくない人に、俺の罪と、汚い欲望を。

 そして軽蔑された。一生許しては下さるまい。

 
 罰が当たったのだ。


 がくがくと体が震え、俺はみっともなく涙を流した。

 申し訳ない。と思い、自分の罪の重さにおののいた。そして自分の保身のために、ほんの一瞬、本当に一瞬、俺は、五嶺様が正気を取り戻されなければ良い。と思った。


「アハァア……」

 耳に入る、俺をあざ笑うような声。

 慌てて顔を上げると、すでにその目から知性は消え去り、獣と化した五嶺様が、俺に口付け、長い舌で俺の口の中を嘗め回した。

「酷いです……五嶺、さま」

 俺の涙をぺろ……と舐めとる五嶺様に、俺は恨み言を言う。

「俺を、からかったのですか?」


 五嶺様は答えない。

 ただただ、俺に快楽をくれとせがむ。もっと罪を犯せとせがむ。

 まるで義務のように、俺は五嶺様にご満足頂けるまでご奉仕し、五嶺様の中に俺の欲望を吐き出して、荒い息をつく。

 五嶺様は、イった後の余韻に浸り、しばらく甘い声で鳴いていたが、やがて顔をしかめられた。

 体の奥から、俺の放ったものがとろりと出てきている。その感触と、べたべたする体が気に食わないのだ。

 お風呂に入れて差し上げよう。風呂で綺麗にかき出して、その後、良く撫でてやればきっと機嫌を直してくださるだろう。

 俺はそう思って、のろのろと鉛のように重い体を起こした。




 五嶺様には、本当に心が無いのだろうか?

 時折、目の前の五嶺様から、お言葉が聞こえてくるような気がするのだ。

 治療師は、五嶺様が正気を取り戻される事は無い。と言った。

 では、さっきの五嶺様はなんなのだ?

 あれは、記憶の再現などではなかった。

 一瞬だけ正気を取り戻されたのか? それとも……。

 もし、目の前の五嶺様が、正気を取り戻した「ふり」をして俺をからかったのなら、こうなってしまった五嶺様にも、お心は確かにあるのではなかろうか?

 判らない事ばかりで混乱する。

 ここは地獄か極楽かわからなくて混乱する。

 地獄と極楽の間は薄い膜で隔てられているだけと知る。


 俺はその時、自分がすごく傷ついているのだとようやく気がついた。

 それすらも気がつかぬほど、俺は壊れていたのだと気がついた。








20080118 UP
初出 20070318発行 玉響

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