奥様は五嶺様
身も心も満足した、甘い一時を五嶺様と過ごした翌日。
久しぶりの休みに、長い事積んであったHGグフでも組み立てようと俺は思っていた所だった。
ニッパーを手にしたその時、しゅっしゅっと足早に歩く衣擦れの音がして、同じく休みではあったが親族会議真っ最中のはずの五嶺様が俺の部屋に飛び込んでくる。
なっ、何事だ!?
「エビスっ!!」
「はっ、はぃぃぃぃ!!」
五嶺様の怒鳴り声に、思わず手元が狂い、ニッパーでグフの動力パイプを切り落としてしまった。
あ……。と思うまもなく、俺は五嶺様を見上げる。
「ななななな、なんですか五嶺様っ!」
俺の部屋の入り口で、怒りの表情で仁王立ちしている五嶺様に、俺は恐怖の余り身動きできない。
怒られるような心当たりは無いが、なにせ相手はあの五嶺様だ。俺の予想の斜め上を行く騒動を引き起こすに決まっている。
「死にたくなければ黙ってアタシの言う事を聞け」
恐怖の余り固まっている俺の手からニッパーを取り上げ、喉元に突きつけながら五嶺様が言った。
「ひっ!」
本気の目だ!
鈍く光るニッパーの刃先と、五嶺様の顔を交互に見ながら、俺は怯えて縮こまった。ニッパーのような小さな刃物で死ぬとは思えないが、刺さったら痛い。
「何も言わずにこれにサインしろ」
「な、なんですか、これ」
五嶺様が差し出した用紙を、俺はおずおずと手にし、緑がかった薄っぺらい紙をまじまじと見る。
一瞬、俺は目を疑った。
「えっ、ちょっ、これ」
婚 姻 届
確かにそう印刷されている。
妻の欄には、すでに「五嶺陀羅尼丸」と達筆でサインが済まされていた。
「婚姻届じゃないですか!」
「いいから黙ってサインしろぃ! 殺されてぇのか、この豚が!」
婚姻届、妻の欄には五嶺様のお名前。そして俺にもサインしろと脅す、いや仰る。
その心は……。
結婚!?
振ってわいた突然の出来事に、俺の心臓は早鐘を打ち出した。
昨日、早く結婚できるように頑張りましょう。という話をしたばかりではないか。
そりゃ早い方が良いけど、十二時間もたたないうちになんて……。
早すぎねぇか!?
「分家筋の奴らがよぉ、アタシの事、行かず後家になる前に見合いしろって言うんだよ」
あまりの事にぷるぷる震える俺を無視して、五嶺様は怒りに満ちた顔でそう仰った。
「家は落ち目だし、借金はあるし、性格は悪いし、アタシみたいな女、誰も貰い手が無いから若いうちに顔で騙せって言いやがった」
え?
なんだそれ?
つまりこれって、そう言われたことが悔しくて俺と結婚するって訳じゃ……ないですよね?
「おおおぉぉぉぉおきなお世話だってんだよ! アタシだってねぃ、結婚を申し込まれてる男の一人や二人っ!!」
五嶺様は、額に青筋をたてながら「大きな」の部分を思いっきり溜めて叫んだ。
その言葉の内容に俺が仰天する。
「ふ、二人もいるんですか!」
二人って俺と誰!?
「いや、今のはちょっと見栄はっちまったねぃ」
「びっくりさせないで下さい! 死ぬかと思ったじゃないですか!」
お前だけ。と訂正した五嶺様に、ほーっと安堵のため息をつく。
その気になれば、いくらでも男選べるんだから、五嶺様は。黙って微笑むだけで、流し目一つだけで、いや、冷たく見下ろすだけでも、男を夢中にさせる。本性はアレだけど。
今まで仕事一筋で、本人にあまりその気が無いのが幸いといえば幸いだが、俺はいつだって心配なんだから。
五嶺様の正体を知っておいてついて行けるのは俺だけだと自負しているが。それでも、ちょっとでも五嶺様が他の男の事を気にするのは嫌だ。
俺ってけっこう嫉妬深い。
「あの、そんな、売り言葉に買い言葉で結婚しちゃっていいんですか?」
「結婚なんて勢いだよ! アタシは今勢いに乗ってるからねぃ。この勢いで結婚すれば吉と出ると見た!」
五嶺様のお言葉に、俺はがくっと肩を落とした。
博打じゃないんだから……。いや、博打か?
「嬉しいんですけど、その……」
結婚って、もうちょっとロマンチックで神聖な……。って何で男の俺の方が夢見てるんだろ?
「ざまぁみろだねぃ。あいつらの鼻をあかしてやるよ!」
俺がサインした婚姻届を手にして、五嶺様は顔を輝かせた。
その顔に浮かんでいるのは、結婚の喜びではなくて、自分を馬鹿にした相手を見返す喜び。
これでは、五嶺様との結婚のために日々頑張って頑張って、ずっと楽しみにして、心の支えにしていた俺があんまりにもかわいそうって言うか、ちょっと、悲しいんですが。
でも、まぁ、いいか。
うん、贅沢だ。いつできるか判らなかった結婚が現実のものになったのだから、文句を言うとバチが当たる。それよりも、五嶺様が「やっぱり結婚はやめだ」と言い出したときの心の準備をしておこう。ぬか喜びだったら俺がショックの余り死んでしまいかねん。
思いがけずあっさり叶ってしまった願いに、俺は呆然としていた。人生って何が起こるか判らない。特に五嶺様の近くにいると。
「あの、相手が俺だと馬鹿にされるかもしれません……」
「そんな事アタシがさせないからねぃ。いいかエビスの、お前はこのアタシが選んだ男なんだから、堂々としてろぃ!」
力強いお言葉に、「五嶺様、男前……」と俺は惚れ直した。
やっぱり好きです。大好きです。愛してます。
うっとりと五嶺様を見上げる俺の襟を掴み、五嶺様はぐいと乱暴に持ち上げた。俺が立ち上がると、好戦的な顔でにやっと笑う。
「いざ参るとしようかねぃ、エビス」
「ど、どこへ?」
「決まってんだろぃ! うちの親戚連中に挨拶するんだよ、お前は!! お前とアタシが行くは茨の道ぞ、覚悟しろぃ!」
「へっ、ヘイッ!」
展開が早すぎる!!!
ほんの五分前まで、俺はのんびりとグフを組み立ててるところだったんだ!!
気まずい。
非常に、とても。
その中で、五嶺様だけが上機嫌だ。
誰しも見とれる綺麗な笑顔で、優雅な手つきで杯の酒をくいとあおっている。
他の誰も、膳の食事にも、酒にも手をつけていない。
ひたすら、俺をじーっと見つめている。
気まずい……。
「何をお考えですか? 若」
沈黙を破り、一人のご親戚が口を開く。
「何を? とはどういう事だぃ?」
「突然、エビスと結婚するなどと」
確かに、五嶺様のご結婚など、青天の霹靂だろう(だから見合い話を持ってきたのだから)
しかも相手は俺。ご親戚筋の方々の困惑は想像するに容易い。
「そのままの通りだよ。アタシはこのブタ……いやエビスと結婚する。今日はその婚約披露の祝いの席だ。上手い具合に親戚筋が集まってて好都合だったよ。それにしても祝いの言葉一つも無いのかぃ、お前たちは」
素直に祝いを述べられるような結婚ではない事は、俺が一番良く判っている。
五嶺様は、一千年の歴史を誇る五嶺家のご当主。世が世なら姫様だ。本当なら、俺なんかが近寄る事も出来ない高貴なお方。
そして俺は身寄りのない孤児だし、親戚の方々が持ってきた見合い相手に比べて、金もない、コネも無い、権力も無い、ついでにダルマときた。
茨道であることは重々承知。
それでも俺は、五嶺様が欲しい。
「五嶺様、思いつきで結婚するのはどうかと思いますが」
俺もどうかと思います。と五嶺様の相手が自分じゃなかったら俺もそう言ってたに違いない。
「思いつきじゃない。以前から考えていたことだよ」
「嘘だ。あんな事言われて悔しかったからでしょう」
「うるさいねぃ」
誰かの突っ込みを五嶺様は一睨みして黙らせた。
「エビスですよ、五嶺様」
「それがどうしたぃ?」
「先ほどは失礼な事を申しましたが、五嶺様なら、こんな下種な男よりももっと貴女に相応しい……」
「そうですよ、こんな薄汚い使用人風情と結婚なんてみっともない! 五嶺宗家の当主が……」
「黙れ。エビスを侮辱するのはアタシが許さない。エビスを軽んじるは、エビスを選んだアタシを軽んじるのと同じ事ぞ」
ぴしりと五嶺様が言うと、しんと静まり返った。
けして大きな声を出した訳ではないが、何人たりとも逆らう事を許さぬ、五嶺様のお声。
やはり、五嶺様はご当主なのだ。
「金も、美貌も、権力も、アタシくらいなんでも持ってる女になるとねぃ、逆になんにも持って無い男くらいがちょうど良いんだよ!」
感心したのもつかの間、俺は五嶺様のお言葉に打ちのめされる。
五嶺様が一番酷い!! いや、事実なんだが。
「その代わり、お前はアタシの一番欲しいもの、くれるだろぅ」
肩を落として落ち込む俺に、扇の陰から五嶺様が囁いた。
「例えば……、お前の心とかねぃ」
にやっと悪戯っぽく笑う五嶺様の表情。
五嶺様ぁ……。
俺はうるうるときてしまった。下げて、持ち上げる。五嶺様の常套手段だと判っているが、それでもいい。嬉しい。
そう、俺には、五嶺様に差し上げる事が出来るのは、俺くらいしか無い。
俺の愛なら、いくらでも差し上げます。誰よりも五嶺様を愛しています。それだけは俺は自信を持って断言できる。
俺が役に立つって事、証明してやる。と心に誓った。俺を選んでくださった五嶺様のためにも、恵比寿を選んだのは正解だったと皆に言わせてみせる。
「僕は賛成しますね」
末席に控えていたお一人が、声を上げた。
俺も五嶺様も、まさか、賛成してくださる方がいるとは思わなかったので思わず驚く。
「口を慎め、若輩が」
吐き捨てるように言われたが、お気になさらず言葉を続ける。
「エビスは使える男です。それは皆さんもご存知でしょう? 陀羅尼丸さん愛しさに一生死に物狂いで働いてくれますよ。そのコストパフォーマンスを考えると、結婚でコネ作るよりずっと良いと思うなぁ」
他家に五嶺家を乗っ取られる心配も無いし、余計な口を出される心配も無い。五嶺は相手の家に頼るほど落ちぶれたと言われるのも癪だ。
陀羅尼丸さんが、結婚というカードを使わずにグループを再建できる自信があるのならば、好きにされたら良い。
そう仰って、五嶺様に向かってにっこり微笑まれた。
「婚姻届なんて紙切れ一枚で、人一人奴隷にできるんだから大したものですよ、陀羅尼丸さんは。僕はてっきり、エビスを愛人にして、結婚をエサに死ぬまで働かせるのかと思ってましたが、また逃げられるのが嫌だったんですか?」
アレ? 奴隷って俺?
もしかしなくても俺?
「逃げたんじゃない! アタシが首にしたんだ! しかもちゃんと戻ってきたんだよこいつは!」
そんな、はぐれた犬みたいな言い方しなくてもいいじゃないですか……。
「エビスってマゾなの? そのまま逃げるチャンスだったのに馬鹿だな。僕は嫌だなぁ、陀羅尼丸さんみたいな人」
否定できない。けど、五嶺様は、凄く可愛いところもあるんだけどな。でもまぁそれは、俺だけが知っていれば良いことか。
「お前、アタシを一体なんだと思ってるんだぃ」
五嶺様は睨みつけて言ったが、飄々と口を開かれる。
「え? 違うんですか? いかにも鬼畜な陀羅尼丸さんならやりかねないと思ったんですが、もしかして愛があるんですか?」
「あ、あるに決まってるだろぃ!」
五嶺様は少し赤くなりながら仰った。
嬉しいです……。
思わず緩みそうになる顔をぎゅっと引き締める。
「いや、さっき、エビスの首根っこ捕まえて部屋に放り込んだところなんか愛のかけらもなかったですが」
横からの冷静な突っ込みに、俺ははっと我に返った。そういやあの手には愛など一かけらも感じなかったぞ……。
「……あるところにはある」
五嶺様は苦しい事を仰ると、沈黙された。
「エッチの時だけ優しいタイプだ」
確かに!
「うるさいねぃ。さっきから誰だぃ!」
五嶺様が噛み付いている隙に、俺に話しかけられる。
「エビス君、君、五嶺様に脅されて無い? 嫌なら嫌って言って良いんだよ。エビス君にも選ぶ権利は有る」
え……。
「お、脅してなんかないよ! 人聞きの悪い」
五嶺様の声が乱れる。さすがご親戚筋の方々は五嶺様の事をよくわかっていらっしゃる。
「ちょっと別室で五嶺様抜きで話そうか」
「駄目! それはだめだ! エビス、お前アタシを裏切るなよ!! 裏切ったらどうなるか判ってるんだろうねぃ」
五嶺様、それでは俺を脅していると言っているようなものです……。
でも、脅したりなんかしなくても、俺はここで五嶺様との結婚をやめるなんて言ったりしないのにな。変なところで自信が無いみたいだ。それとも、相当俺を苛めてきたという自覚があるのか。
「ちょっと脅されました」
俺が言うと、周りの皆はやはりと頷いた。
「やっぱり!」
「陀羅尼丸さんの人でなし!」
「アタシを裏切ったな、エビスっ!」
五嶺様が俺を睨みつける。俺は、すうっと息を吸った。
「ですが、俺は本当に五嶺様を愛しております。心の底から」
俺の言葉に、しん。と皆様の動きが止まる。
まさか、普段から五嶺様に豚だのダルマだの言われて縮こまっている俺がずうずうしくそんなこと言うとは思っていなかったのだろう。いろんな意味で。
俺だって、下僕の分際で主を求めるのは勇気がいる。
「こんな性格の悪い扱いにくい人でも?」
「はい。性格の悪さも、我侭なところも、扱いにくい所も、気まぐれなところも、人使いが荒いところも、人を人とも思っていない傲慢さも、子供じみてるところも、エビスは、五嶺様の全てを愛しております」
俺の言葉に、思わず、皆が噴出した。五嶺様お一人が、憮然とした顔をしている。
「エビスが一番判ってる」
くすくすと笑いながらそう言われ、俺もにへらっと笑い返した。
後で殺される。
「どうか、結婚をお許し下さい」
そう言って、俺は皆様方に深々と頭を下げた。
「エビスしかいないよ。五嶺家にとってもそれが一番良い。エビスがいない間の陀羅尼丸さんの荒れっぷりは二度と味わいたくないでしょう」
お若いお声が、そう仰ってくださった。
その声に、「う……」とみなの顔が沈む。「思い出したくない」と暗い声でぽつりと誰かが呟かれた。
俺がいない間何したんだ、五嶺様は。
「判った。認めよう」
沈黙の後、親戚筋の皆様の筆頭を勤められるお方が、諦めたようにそう言われた。いや、呆れたのか?
愛だのなんだのの甘い感情でこの方は動かれない。
俺は認められたのだ。俺との結婚が、五嶺家にとってプラスになると。
その言葉を合図に、ざっと五嶺様に向かい、皆が一斉に頭を下げる。
「ご婚約おめでとうございます、宗主」
「ありがとう」
にっこりと微笑まれた五嶺様のお顔を、俺は一生忘れない。
「エビス、お前今地獄の入り口におるんだぞ、判ってるのか? 引き返すなら今だぞ」
ご親戚の方に酒を勧められながら、俺はそうからかわれる。
「いえ。五嶺様さえいらっしゃれば、俺にとってはどこでも天国です」
真面目腐った顔で言うとみんな笑い「エビスはすごい」と言われたが、俺にとっては嘘偽り無い本心。
例え本当に地獄に落ちようとも、ついていきますからね五嶺様!
終
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