とりかえばや Hi‐Fi
広大な敷地を誇る五嶺邸の廊下を、マントを翻し、身が詰まってそうな外見からすると意外なほど軽い足音で、エビスが走る。
お目当の部屋にたどり着くと、襖の前でいったん立ち止まり、呼吸を整え、ささっと正座した。
「エビスです。失礼いたします、五嶺様」
返事を確認して襖を開くと、部屋の中にいた五嶺がにっこりとエビスに向かって微笑む。
「おやエビス、遅かったじゃないか」
待っていたにしては意外なほど機嫌よく五嶺は声をかけ、エビスは、叱られなかった安堵感と、思いもよらぬ笑顔に逆にどぎまぎしてしまい、内心慌てふためく。
「申し訳ございません。先の仕事が少々長引きまして……」
その笑顔、不意打ちだぜ!
しどろもどろになり、ちらっと五嶺の顔を伺いながらエビスが言い訳すると、珍しく無邪気な笑顔を満面に浮かべていた五嶺が、ふっと意地の悪い笑みを浮かべる。
「アタシを待たせるなんて、良い度胸だねぃ」
来た!
晴れのち雷鳴。落雷にご注意下さい。
ドクンとエビスの心臓が大きく脈打つ。脳細胞をフル回転させ、五嶺の意向を探る。
なかなか腹の底を見せぬ主に油断は禁物。
その笑顔が、怒りなのか、それともからかっているだけなのか、慎重に見極めなければいけない。
「っも、申し訳ございません」
縮こまって深々と頭を下げるエビスの頭上から、五嶺のからかうような声が降る。
「口付け……してくれたら許してあげるよぅ、エビス」
思わず、驚きのあまり伏せていた頭をがばっと上げた。
じっと五嶺を見つめると、かわいらしく首をかしげ、エビスの返事を待っている。
なっ、そんな、馬鹿な!
これは夢か!?
いや違う。考えろ、考えろエビス!!
「ご、五嶺様、な、なにを仰ってるのですか!!!」
怒り、エビス苛め、八つ当たり、気まぐれ。
さまざまな場面を予測していたエビスだったが、五嶺のその言葉はあまりにも想定の範囲外。
思わず素になり、真っ赤になってうろたえる。
「ホレ、早く!」
紅を塗らずとも赤い唇を可愛く尖らせ、目を閉じて、ん。とキスをねだる五嶺陀羅尼丸。
「いやっ、なっ、ゴリョさま、あわっ、そんな、エビスは、あの」
言語能力まで思考能力に回し、目の前の非現実な光景を必死で理解しようとしているエビスの目が血走り、真っ赤になって今にも頭から湯気を出しそうだ。
可愛い。凄いキスしたい。
でも多分、これは罠だ。この先に待ってるのは死だ。
でもしたい。
理性と欲望が戦い、妄想がオーバーフローしたエビスが倒れそうになると、ぱちっを目を開けて五嶺がうふふふっと楽しそうに笑った。
「うぷぷっ、なんちゃってー! でやんす!」
エビスに向かっておどけてウィンクする五嶺陀羅尼丸の顔。
その声はいつもの気だるげな喋りではなく、ちゃきちゃきとしている。
「はぁっ!」
誰っ!!
エビスが、奥目が飛び出るほど仰天しているのを見て、また五嶺は、いや五嶺の顔をした誰かは、楽しそうに笑った。
「七面でやんす! お久しぶり!」
顔見知りの犯行に、怒りよりも安堵でほーっとエビスが息を吐く。
「お前かよ〜〜〜、びっくりさせるな」
そういえばコイツを呼ぶと五嶺様は仰っていたなぁと思いながら、気が抜けたエビスはその場に倒れこんだ。
ぐったりと寝転びながら、顔を上げると、五嶺の姿を模した七面犬が、エビスの顔を覗き込む。
「五嶺様は?」
「お出かけでやんす」
にっこりと笑うその顔に、心臓が早鐘を打つ。
いつもはめったに与えられぬ極上の笑顔を、惜しげもなく見せ付けられ、これは五嶺様じゃないんだぞ。といくら自分に言い聞かせても、心がときめく。
ふと、本物の五嶺なら、エビスがぴしっと着付けている襟が緩み、はだけかけてるのに気がついた。
「お前、着付けめっちゃくちゃじゃないか、自分でやったのか? 直してやるよ」
エビスはそう言って起き上がり、七面犬を立たせる。
七面犬は嬉しそうに立ち上がり、紐を解き、上物を脱がせるエビスを相変わらず無邪気な笑顔でにこにこと見ている。
袴を足元に落とし、襦袢の紐を解くと、「襦袢は自分で着ろ」と言ってエビスは慌てた様子でくるりと後ろを向いた。
なんか、七面のやつ、襦袢の下全裸っぽい……。
いくら七面犬とはいえ、見た目は五嶺と寸分変わりない。五嶺本人の裸を見てしまうようで直視できない。
「エビス殿エビス殿」
「ああ? 着たか?」
七面が呼ぶので後ろを振り返ると、七面犬は、悪戯っぽい顔で襦袢の胸元を左右に開く。
大きく開いた胸元から、形よい二つのふくらみがのぞく。
エビスが固まっていると、さらに、手で裾を太腿の辺りまでめくり上げ、真っ白な長い足を露にする。
「五嶺殿の胸、五嶺殿のふともも、五嶺殿のふくらはぎ〜でやんす!」
乱れた襦袢姿で、見た目五嶺中身は七面がお色気ポーズをとると、驚きのあまり、エビスがイタリアンひげオヤジのごとく飛び上がる。天井をぶち抜かなかったのが幸いだった。
「おいおいおいっ、五嶺様には胸なんてないぞっ!」
顔を真っ赤にして、それでも胸の谷間や白い太腿から目が離せない正直なエビスがうわずった声で叫ぶと、七面犬が首をかしげた。
「あ? そうでやんしたっけ? ついうっかり」
「うっかりじゃねぇよ! なんの魂胆あって俺をそんなうれし恥かしがらせるんだお前! 五嶺様に知られたら絶対に怒られるぞ!」
「じゃ、胸はサービスサービスゥでやんす! ほら!」
再び、今度はさっきより大きく襦袢の胸を開き、ずずいとエビスに近づける。
「うわぁぁぁぁ」
なんか見えたっ、ぴんくいろの部分がっ、二つ! 白くて柔らかい丘の上に鎮座ましましてた!!
って俺はオヤジかっ!
あまりにまぶしすぎて、目がぁ、目がぁ〜〜。と今にもムスカになりそうなエビスを見て、さらに七面犬が調子に乗る。
「愛してるよぅ、エビス」
五嶺の顔、五嶺の声、五嶺の口調でおどけて言うと、七面犬ががばあっとエビスを抱きしめた。エビスの顔がぎゅっと柔らかい乳房に押し付けられる。
むぐっとくぐもった声を上げて、顔面中を柔らかい乳房でふさがれる。
息ができねぇ!!
じたばたと暴れ、生命の危機を感じるが、こんな幸せな死に方ならこのまま死んでも良いと頭の片隅でちらっと思う。
「アタシの事、愛してるかぃ、エビスの?」
ようやくエビスを離し、顔を覗き込んで、そう囁かれ、酸欠で真っ赤だったエビスの顔が、ますます赤くなった。
「やーめーろー!!!」
ぎゅっと目をつぶってぶんぶん頭を振りながら叫ぶエビスに、七面犬がけらけらと笑ってようやく悪戯を止める。
「もういい、俺がやる!」
もうこいつのペースには巻き込まれないぞ! と決意を新たにし、襦袢を左右にばっと広げる。
こいつっ、やっぱりすっぱだかだ!?
真っ白な女体が露になり、さっそく頭がくらくらするが、意地で平静を装う。
こいつは五嶺様じゃない、七面犬だ! 毛むくじゃらのアイツだ!!
柔らかくて豊かな胸にも、ぴんくいろの乳首にも、くびれた腰のラインにも、むちっとした太腿にも、足の間の薄い茂みにも、今は我慢する!!!!! うろたえない!!!
「アラ、エビスったら大胆だねぃ」
「ゴリョ様っぽく言うな!」
頭の上から降ってくるからかうような言葉にそう返して、急いで襦袢を着せ、着付けをすませる。
「ぷぷっ、エビス殿苛めは楽しいでやんす〜〜」
着付けをすませると、さっきよりもっと見た目は五嶺陀羅尼丸(ただし女)になった七面犬が、楽しくてしょうがないといった感じで笑う。
「エビス殿はこのお顔には逆らえないでやんすからね」
にやにやと意地の悪い笑みを浮かべ、ちらっとエビスを見るが、エビスは言い返すことが出来ない。ただ、無表情を装うのが精一杯。
「エビス、茶を持てぃ!」
五嶺の口調で、ぴしっと言われると頭より早く体が動く。
「ヘイただいま! っておい七面!」
思わずノリ突っ込みするエビスに、や〜い、ひっかかったでやんす〜と七面犬がはやし立てる。
「お見事! まったく見事なパブロフの犬っぷりでやんす!」
ばっと五嶺の扇を広げ、おどけてびしいっとエビスに突きつけながら七面犬が言った。
ほんとにもう、コイツは……。
悪戯好きの七面犬に、エビスは頭を抱えたくなった。この様子では、七面犬が仕事を終えて帰るまでに、後どれだけからかわれるのか判ったものではない。
悔しいが奴の言うとおり、俺はこのお顔に逆らえない。
それに、ずいぶん良い思いもさせてもらったし……。
「お前、俺からかうのもたいがいに……」
釘を刺そうと口を開きかけると、きっと七面犬が五嶺の顔でエビスを睨みつける。
「エビスっ!!!」
「申し訳ございませんっ!!」
もうからかうなと釘を刺そうとしたにもかかわらず、声が耳に入った瞬間、がばっと平伏。
本当に、骨の髄までしみこんだ習慣というものは怖い。
「……まだなんにも言ってないんでやんすけど、こんな時、とりあえず土下座がデフォなんでやんすか?」
「……まぁな」
予期していたとはいえ、エビスの行動に、さすがに七面犬が呆れた声を出す。
エビスは、恥かしさに俯きながら、ゆっくりと土下座の体制から胡坐をかいて座る。
その隣に、急いで七面犬が座った。
ついに拗ねてそっぽを向いたエビスに、七面犬が許しを請うて甘えた声を出す。
「怒らないでほしいでやんす」
思わず「別に怒ってねぇよ」と言いそうになって、エビスは慌てて唇をかみ締めた。
駄目だ、俺はコイツに甘すぎる。
「エビス殿のこと好きだから、構って欲しくてちょっかい出しちゃうんでやんす」
五嶺様のお声とお顔で、その台詞、これはクるぜ。
内心でもやもやとしていると、ぎゅっと手を握られた。柔らかくて心地良い。
思わず顔を上げると、しゅんとした目でエビスを見ている。
「だから許して。ね?」
ぎゅっとエビスの手を握り、七面犬が五嶺の顔でエビスの顔を覗き込むと、ふてくされていたふりをしていたエビスの顔がぼっと赤くなる。
「……あ、赤くなった」
「あ〜〜、お前と判っててもその顔で見つめられるとドキドキするんだよっ!」
海千山千、ずる賢く狡猾、腹黒なエビスを、一瞬にして純情に変える五嶺の魔力に七面犬が感心してふんふんと頷く。
「本当にエビス殿は五嶺殿が好きなんでやんすねぇ」
心の底から感心している口調に、エビスがますます赤くなる。
「五嶺様のこと好きすぎで悪かったなっ!」
今度は本当に拗ねて、くるりと背を向ける。
「知らぬは五嶺殿ばかりなり。でやんす」
エビスの小さな背をちらりと見て、独り言のように七面犬は呟いた。
「アタシのことが好きなんだよねぃ、のうエビス」
ふわっと五嶺の衣に焚き染めた良い香りがしたかと思うと、エビスは、言葉と共に後ろからぎゅうっと抱きしめられた。
息がかかるほど近くで囁かれ、思わず顔を見上げると、間近で五嶺の顔がにっこりと笑う。
めったに見ることの出来ない、極上の笑顔。
その笑顔には逆らえない。逆らう気にもなれない。例え中身が七面犬だとしても。
「はいはいその通りですよ五嶺様っ!」
ついにやけになって、エビスは大声で返事をする。
こうなったら、七面犬のバカに付き合ってやる。好きなだけ五嶺様ごっこすればいい。
畜生、俺は自分でも呆れるほどに、本当に五嶺様の事を好きすぎる。
「死ぬほど好きなんだよねぃ?」
好きで好きでたまらない。
風が吹いても、花が咲いても、雪が降っても月が出ても、思うは五嶺様のことばかり。
「その通りですゴリョーさまっ!」
いかに自分が五嶺の事が好きか、改めで自覚して自分でも驚く。
「そんなに好きなら本人に言っちゃえば良いのに……」
「ソレは無理」
素直に返事をしていたエビスが、七面犬のその言葉にはきっぱりと答えた。
「即答でやんす」
「ぜーったい無理。俺死にたくないもん。五嶺様に汚物を見る目で見られる。首になる、殺される」
本心からそう言っているらしきエビスに、七面犬の表情が曇った。
「じゃ、一生言わないんでやんすか?」
「一生言わねぇ。墓まで持ってく」
それ以外の選択肢は無い。
言い切ったエビスに、七面犬が何か言い返したくて口を開く。
「五嶺殿も、案外……」
「安心しろ、百パーセント無い。五嶺様にとって俺は豚だ」
何を言っても、エビスは聞く耳を持たない。そう感じて、ますますもどかしくなる。頑ななエビスに、七面犬が食い下がった。
「そんなの、悲しすぎるでやんすよ。最初から諦めなくたって……」
「いいんだよ。俺は五嶺様の側近としてお仕えするだけで十分幸せなんだからな。そういう愛もあるってことで」
さばさばしたとした口調でそう言って、もうこの話は終わりだ。とばかりに手を振る。
「案外、自分の事は判らないんでやんすねぇ」
最初から駄目だと決め付けて心を閉ざすエビスには、何を言っても届かない。
「知らぬはエビス殿ばかりなり、でやんす」
七面犬が口の中で小さく呟くと同時に、エビスの携帯が鳴った。
ただでさえ小さな声は、携帯の着信音にかき消されてエビスには届かない。
「わりぃ。ヤボ用だ。ちょっと行ってくる。すぐ戻ってくるから」
携帯をしまいながら慌ててエビスが言い、よっぽど急いでいたのか、弾丸のように部屋を飛び出す。
「お忙しいんでやんすね」
怒涛の勢いで走り去るエビスを襖に手をかけ見送っていた七面犬が呟き、きし……と廊下がきしむ軽い音に後ろを振り向く。
「あ、おかえりなさい」
ぱっと七面犬の顔がほころんだ。
野暮用を急いで済ませ、エビスが七面犬を探して邸内をうろつく。
女体の五嶺陀羅尼丸。なんて姿であちこち出歩かれては、どんなトラブルを巻き起こすか判ったものではない。
ようやく、庭に面した部屋にお目当の顔を探し当て、エビスがほっと安堵する。
大き目の文机に肘を突き、何か考え事でもしているのか、ぼーっと開け放った襖の外に広がる庭を見つめている。
「こんな所にいたのか、探したぜ」
そう声をかけると、エビスどのーと飛びついてくるかと思いきや、じっとりとした目で下からじろじろと見上げられ、エビスがひるむ。
なんだこいつ、さっきいきなり置いて出て行ったから怒ってるのか?
「なんだよ? 置いていって悪かったって。これやるから怒るなよ。そんな陰険な目で見やがって。五嶺様の性格の悪いところまで真似しなくても良いじゃねぇか」
ぶつぶつ言いながら自分のおやつのうまい棒コンポタ味をお詫び代わりに手渡すと、珍しかったのか首をかしげながらも素直に受け取る。
「さっきの話だけどねぃ。エビスお前、好きなのかぃ」
うまい棒では機嫌が直らなかったのか、相変わらずじっとりとした目でじろじろと見られながら言われる。エビスは気にせず、隣にどかっと腰をおろしながら、手にしたかばんから書類を取り出す。
「なにが?」
書類から目を離さずに返事をすると、白い手が、エビスの目にしている書類をさえぎった。
思わず顔を上げると、見たことの無い表情を浮かべた五嶺の顔がエビスを見ている。
「アタシが」
自分を指差しながら言うその言葉に、エビスが肩をすくめた。
「なんだよ? 蒸し返しやがって。また五嶺様ごっこか? ヒマだな、お前も」
やんわりと白い手を退かし、再び書類に目を落としてエビスが口を開く。
「好きすぎるくらい好きですよ、五嶺様」
エビスの言葉を聴いて、白い喉がこくんと微かに動いた。
その微かな動きに気がつくはずも無く、あ。と声を上げて再びエビスが顔を上げる。
「ヒマなら宛名書き手伝え。お前字書けたっけ?」
封筒と住所録、筆ペンを手渡しながらそう言うと、呆れたような顔をして口を開く。
「字くらい書けるに決まってんだろぃ。お前アタシをなんだと思ってるんだ」
「そか、悪ィ。舐めてた。っていうか、字上手いな……。本当に五嶺様みたいだ。そういうのもコピーできるんだな、お前」
感心して手元を覗き込むエビスの頭の上から、再び声が降る。
「お前、アタシが好きなのかぃ?」
「突っ込むな〜。この話題好きだな、お前」
呆れたように首をすくめ、照れ隠しに書類に目を落としながらエビスが言葉を続けた。
「ったくよー、何言ってんだ、俺が五嶺様のこと好きなの知らないのは、五嶺様ぐらいだってお前が言ったんじゃないか、七面」
そこまで言うとひょいっと顔を上げ、五嶺の顔を見てふっと笑う。
強がっているが、苦しい恋をしているものの、微かに苦味の混じった、耐える顔。
「死ぬほど好きに決まってる」
そう言うと、照れて、キシシッと短く笑った。
その言葉が本当なのだと、問い返さずとも判る。
苦しくても、それでも、愛しいのだと、何があろうと変わらずずっと愛し続けるのだと、その声から、その顔から、決意のようなものが感じられ、大きく包み込むようなエビスの愛情が溢れる。
「ふうん」
エビスの返事にそう言って、しばし考え込んで手を動かしていたが、顔を上げ、急に隣のエビスを押し倒す。
「おいっ、なにす……!」
五嶺の顔を見上げるエビスの驚いた顔に、軽く口付ける。
唇に感じる、柔らかい羽が触れるような、心地よいキスの感触に、エビスの目が白黒した。
戸惑うエビスをよそに、顔中にキスの雨を降らせる。
額にも、瞼にも、頬にも、愛しくて我慢できない。というように、性急に。
「エビス」
甘い声で囁き、再び唇を、今度は深く口付けようと近づいてくるのを察して、エビスが手を伸ばして押し留めた。
「ちょ、やめろってば七面。お前は馬鹿にするかもしれないけど、俺は五嶺様の事ほんとに好きなんだからな。これ以上俺の大事な部分に土足で踏み込むと本気で怒るぞ」
睨みつけるエビスの目に、本当に怒りが篭っている。
あれほど、この顔には逆らえない。と言っていたエビスの見せる初めての怒りに、驚いてぱちぱちと大きく瞬きをした。
お前もそんな顔をするのか。と思う。
「馬鹿になんか、するもんかぃ」
初めて見るエビスの顔に、そっと触れた。エビスは相変わらず、怒りの篭った目で自分を見上げている。
自分の知らないエビスに戸惑い、興味を引かれる。
「アタシも本気だよ、エビス」
そう言って再び顔を近づけるが、エビスは嫌がって顔を反らせ、顔を見られたくないのか、腕で顔を覆った。
「やめろってば」
腕の下に隠れたエビスの顔は伺えないが、その声は辛い響きに満ちている。腕の下のエビスの胸の痛みに歪んだ顔を想像させた。
「辛いから、マジで」
短い単語に、エビスの気持ちが痛いほど込められている。
「俺が欲しいのは、五嶺様だから」
エビスの血を吐くように発せられた苦しげな言葉に、思わず動きが止まった。
「姿かたちが一緒でも、お前じゃ駄目なんだ」
エビスの言葉と共に、つ……と透明な涙が、一筋頬を伝って落ちる。
「お前、泣いてるのかぃ? アタシが欲しくて」
「そうだよ、悪いか?」
思わず首を振ったが、エビスに見えるはずも無い。
「どれだけ手に入らないって判ってても、五嶺様以外は、いらない。五嶺様の代わりなんか、ない」
つつ……とエビスの頬に新しい涙が伝う。その涙を、細くて長い指が優しく掬い取ったのを、心地よいと思った。
次の瞬間、空気が動くのを感じとる。立ち上がったのだ。
「次お前の顔を見るのが楽しみだよ、阿呆めぃ」
その言葉を残し、衣擦れの音と共に人の気配が消える。
エビスは動かすに、じっとそこで息を殺す。
胸が苦しくて息が出来ない。
求めても得られぬ悲しみと、辛さがエビスを苛む。だが、頬に触れた指先の与えてくれたしびれるような甘さが消えてしまうのが嫌だったのだ。
甘い疼きと切なさがエビスを満たす。
甘いのか、苦しいのか、切ないのか。
そんなエビスの閉じた世界を破ったのは、能天気な声だった。
「今日のおやつは出町ふたばの豆餅でやんすよ〜〜。五嶺殿の好物でやんす! って、おんや〜? 五嶺殿がいないでやんす」
ぱたぱたと軽い足音がして、部屋に人が入ってきた気配がしたと思うと、聞きなれた声がした。
思わずかっと目を見開く。
「代わりに死体のようなエビス殿が……。事件の臭いがするでやんす」
豆餅と急須を載せたお盆を側に置き、何時もと違う口調の五嶺の顔が、エビスに近づいてふんふんと匂いをかぐ。
「お、お前、七面?」
エビスのマヌケな問いに、目の前の五嶺の顔が頷いた。
「そうでやんすけど? 五嶺殿は? はて? さっきまでここにいらっしゃったのに。一緒におやつを食べようって約束してたのにー」
きょろきょろとあたりを見回す五嶺の胸のふくらみを見て、エビスが自問自答する。
さっきの五嶺様、胸あったっけ……?
「お、おまえ、さっき五嶺様は出かけられたって言ったじゃねぇか!」
思わず起き上がり、七面犬に詰め寄ると、「お?」という顔でエビスを見る。
「あれ? すぐ戻って来るって言わなかったでやんしょか?」
「言ってねぇよ!」
つっこみながら、必死に記憶を探る。いや、探らなくても判ってる。ただ認めたくなかっただけだ。
さっきの五嶺様には、胸、無かった……っ!
「さっきの五嶺様は本物かぁぁぁぁぁぁ」
思わず、絶望のあまりごろごろと畳の上を転げ回る。
慌てて七面犬がお盆を安全なところへ避難させた。
言ってしまった。恥かしげも無く。
五嶺様本人の前で好きだって言ってしまった。絶対言わないつもりだったのに。
しかも泣いてしまった。
なによりも、キスされてしまった!!
「もう、駄目だ。死ぬ。俺はどの面下げて五嶺様の前に出ればいいんだっ!」
絶望に満ちた声で言い、エビスが畳に伏せてじたばたする。
うまい棒など渡してしまった。
それに、宛名書きもさせた。
性格が悪いとも言った。
死ぬ!!!!!
「……よく判んないんでやんすけど、辛い事があったんでやんすね」
狂ったとしか思えないエビスの奇行を同情の目で見ていた七面犬が、しみじみと言った。とりあえず、ものすごく辛いという事だけは伝わったらしい。
ぐい、とエビスの手を掴み、自分の胸をわしっと掴ませる。
「……エビス殿、揉んどけぃ。でやんす」
「マジで!?」
「あっしら友達でやんす。エビス殿が落ち込んでるときに手を貸すのは当然でやんす!」
急に元気になってがばっと顔を上げたエビスに、五嶺に化けた七面犬は、観音菩薩のような慈愛に満ちた顔で頷いた。
ぎゅ……とエビスを抱きしめる。
「七面〜〜、お前優しいなぁ」
思わず、柔らかい胸に泣きついたエビスの後ろ頭を、優しく撫でる。
「よしよし、エビス、アタシの胸で存分に泣けぃ」
そう言ってぽふぽふと落ち着かせるようにエビスの背を優しく叩く。
やがてエビスの手がよからぬ事をするまで。
「ちょっと、エビス殿、生で!?」
「当たり前だろ!」
「げっ、エビス殿、なんか上手いでやんす。それに、五嶺殿のお体、すごく感じやすくて……。やっ、やめ! んっ!」
「……五嶺様って、そんな感じやすいわけ?」
「んもうめっちゃくちゃでやんす。羨ましいお体お持ちでやんす。ここらへんとか特に……」
「うわーうわー、なんかいやらしいぜ!」
「ほかにもこことかー、あっ、ここもでやんす」
楽しそうにはしゃぐ二人は、這い寄る破滅の匂いに気がつかない。
「ここも、だねぃ」
声と共にエビスの背後から白い手が伸びる。指先で、七面犬の化けた五嶺の体の、耳の後ろから首筋をつつつっと撫でる。
触れられた瞬間、びくっと大きく体が痙攣した。
「ふぁあっ……」
指が肌の上をすべると、思わず本気の喘ぎ声を出して、ぶるぶるっと七面犬の体が震えた。
よっぽど感じてしまったのか、きゅっと眉根を寄せ、んん……と堪えきれず吐息を漏らす。
「うわ〜、五嶺様ってやらしい!!」
え?
「ごりょう……さま?」
はっと二人の空気が凍りつき、おそるおそる、白い手から、着物の袖、襟元から覗く青い襦袢、そして顔へと視線を上げる。
恐怖のあまり固まる五嶺陀羅尼丸。
それを、凍りつきそうなほど冷え冷えとした目で、口元にかすかに笑みを浮かべて見下ろす五嶺陀羅尼丸。
鼻ばかりか、全身が真っ青になったエビス。
「なにしてるんだぃ? お前たち、ええ? ずいぶんと楽しそうじゃねぇか」
「ごっ、五嶺様!!!!」
エビスがうろたえると、隣ですぅっと七面犬が息を吸った。
「りょ、慮外者〜。違うんです五嶺殿、エビス殿がいきなりあっしを」
いきなり被害者ぶってよよよと泣き崩れた七面犬に、エビスが目をむく。
「う、裏切り者! お前がいいって言ったんじゃねぇか」
先ほどの男の友情はどこへやら、仲間割れして罪を擦り付け合う二人が、ゆらりと揺れる怒りのオーラを感じ、はっと恐怖の篭った目で五嶺のほうを見る。
「犬、それに豚! アタシで遊ぶとは良い度胸だねぃ。よっぽど殺されてぇらしいな」
「もっ、申し訳ございません!!」
「五嶺殿、命ばかりはお助けを〜〜」
必死で命乞いする犬と豚の運命は神のみぞ知る。
かくして、エビスは本日二度目の苦痛と絶望を味わう事になるのだった。
終
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