大悲心陀羅尼
たいへんだたいへんだ。
急げ急げ急げ。
五月兎のように急いで、俺は暗闇をひた走った。
もうどれくらい走っているのだろう? ずいぶんと走ったような気がするが、もしかしてちっとも前には進んでいないのかもしれない。
なんせ周りは暗闇だ。行けども行けども光は無い。でも俺は行かなけりゃ、五嶺様の所へ帰らなきゃ。
「う、わっ!」
ぬるりとなにかで足を滑らせ、俺は盛大にすっ転んだ。
運の悪い事にそこは下り坂で、ごろごろごろっと坂を転がり、ぼふっと何か柔らかなものに当たってやっと止まる。あとで気がついたのだがそこは池のほとりで、そいつがなかったら俺は池に転げ落ちるところだった。
「助かったぜ……」
独り言を呟きながらそっと目を開けると、一難去ってまた一難。
なぜか目の前に虎のどアップがあった。坂の上から転がってきた俺が思いっきりぶつかったのが、こいつだったらしい。
妙な縞模様の、眼の三つある虎。どこかで見覚えがある。
コイツ、吼虎之大洞で霊を食い尽くす虎じゃねぇか!!
俺が驚きと恐怖で飛び上がると、ぺしっと頭を何かではたかれた。
なんか懐かしい感触だぜ……。
「これエビス」
頭上から降ってきた聞き覚えのある声に、俺は慌てて上を見上げた。
「ごっ、五嶺様」
くっきりとした二重瞼の切れ長の瞳、通った鼻筋に、口元の黒子。間違いなく五嶺様だ。
なぜ五嶺様がここへ?
俺は五嶺様に会いに行こうと急いでたんじゃないか?
どうして俺は五嶺様に会いに行こうとしてたんだっけ?
そもそも、なんでいつも一緒だった五嶺様とはぐれたんだっけ?
大事な事を思い出そうとすると、うっすらもやがかかったみたいになって上手く思い出せない。記憶が、はしからぼろぼろと抜け落ちていく。
とにかく、俺の頭をはたいたのは、虎の背に座った五嶺様だった。
「何してるんですかこんな所で?」
俺はマヌケな質問をして、五嶺様をまじまじと眺めた。
五嶺様だけど、俺の知ってる五嶺様じゃない。
いつもは後ろでゆるくまとめている黒髪を、目の前の五嶺様は高く髷に結い上げ、宝冠を被っている。
薄い衣をゆったりとまとっているが、右肩は脱ぎ、半裸と言っていいほど露出度が高い。
なまめかしい胸元に瓔珞というネックレス、真っ白い二の腕には臂釧というブレスレット。素肌に装身具というのはエロいなぁと俺は内心ひそかに思った。
「五嶺様じゃないよ、阿呆」
五嶺様の顔と五嶺様の声で、五嶺様じゃない誰かは俺にそう言った。
「じゃ、あの、どちら様で……?」
恐る恐る俺が言うと、何ほざいてるこのゴミクズ死ね。という冷たい目をして、そのお方は口を開いた。
「あきれたねぃ。恩人のアタシの顔を見忘れたか? この恩知らずの豚が」
手にした蓮華で、ぺしんと俺の鼻先をはたく。
その仕草、俺は確かに知っている。ああ、でも、誰だっけ?
「アタシの名前はアヴァローキテーシュヴァラ。お前たちの言うところの観音菩薩だ」
「ヘェ、その観音様が俺に何の御用で?」
五嶺様なのに五嶺様じゃない。それがどうも腑に落ちなくて、俺は今俺の身に起きている事を、まったく理解できていなかった。
「何の御用じゃないよ、お前、死にかけてるじゃないか。胸にでかい穴があいてるだろぃ?」
そう言われてふと自分の体を見てみると、血で真っ赤に汚れていた。ゲッと思って胸に手を当てると、確かに、ぽっかりとでかい穴が開いている。ためしに手を突っ込んでみると、肉を掻き分けて手首の辺りまで行っても指先には何も触れなかった。貫通してるらしい。
転んだのは、自分の血に滑ってだったのか。
俺は急いで側の池に自分の体を写す。
予想通り胸にでかい穴が開いていた。触れてみると、ぬるりと生暖かい血が手に付く。あわててズボンで拭う。
全身血で真っ赤に染まり、顔にはこびりついた血が乾いてえらい事になっていた。どうみても致死量の血が流れたとしか思えない。
ひでぇ。こら死んだぞ俺。
ここは根の国、俺が転げ落ちたのは黄泉比良坂って訳か?
道理で記憶はなくなるわ、観音様に会えるわな訳だ。
ってことは、だ。
「あ、極楽に連れて行ってくださるってんで? そいつはありがたいんですが、あの、ちょっと待ってはいただけませんでしょうか?」
俺は慌てて早口で行った。まだ極楽には行けない。
そう、俺は、なにか大事な用事があったはずだ。
なんだろう? あんなに大事な事だったのに、上手く思い出せない。
ああ、そうだ、五嶺様、五嶺様だ。俺は五嶺様に会いに行くんだった。
なんで会いにいくんだっけ? と俺の中で疑問符がわき起こった。
俺の記憶が確実に薄れてきている。
凄く大切な事をどんどん忘れている。
訳は分からんが、とにかく五嶺様に会いに行かなければならない。
俺が五嶺様の元へ帰らなきゃいけないということだけ覚えているのは、それが俺の本能だからだ。帰巣本能ってやつだ。
「極楽に連れて行って下さるのは阿弥陀如来さまだよ、お前、そんな事も知らないのか、この豚が」
また、ぺしんと俺の鼻っ面を蓮華が弾いた。
その刺激のおかげか、俺はばらばらになりそうな自我をかろうじて保つ。
五嶺様の記憶が、俺を支えている。
全ては皆五嶺様の記憶についてくる。
五嶺様への想いが無ければ、きっと俺の自我は消え成仏するんだろう。
このままだと、きっと俺は誰が五嶺様かも判らなくなって、ただ五嶺様の元に帰らなきゃという念だけを残した霊になるに違いない。
それできっと一つ二つ事件を起こして除霊されちまうんだ。
嫌だ嫌だ。五嶺様を忘れるなんて嫌だ。
俺は涙ぐんで、目の前の観音様を見上げた。
綺麗な顔だよなぁ。口元の黒子が凄い色っぽい。じっと見ていたらよだれが出そうなくらい綺麗だ。
でもこのお顔はどこかで見たことある。誰だっけ?
「アタシが目を離すとすぐに死ぬねぃお前は。こないだもへドロの中から助けてやったばかりなのにねぃ。あまりにもお前の人生が惨めでねぇ、笑っちまった」
言葉だけじゃなく、観音さまは本当に可笑しそうにくすくすと笑った。思わず、笑ったのかよ! と内心で突っ込みを入れる。ひでぇ観音様もいたもんだ。大慈悲の名が泣くぜ。
「あんまりお前が哀れだからさ、お前の願いを一つかなえてやるよ」
ありがたいんだかバカにされているんだか判らない台詞を観音様は仰い、俺は観音様のお顔を首をかしげながら見上げた。
死んじまった今では、金持ちになって巨乳女を下僕にするなんて夢もどうでもいいしなぁ……。
いや違う! もっと大事な事がある。
……なんだっけ?
「その代わりに……」
俺の顔が可笑しかったのか、くす……っと観音さまはお笑いになった。その色っぽい微笑みに、俺の全身がきゅーんとする。
いつでも、俺をこんなに夢中にさせる人……。誰だっけ?
「跪いてアタシの足に口付けろぃ」
うっとりと見上げる俺に向かって、観音様はそう言って、白い素足を差し出した。
しゃらん……と足首に巻いたアクセサリーの小さな鈴が軽い音を立てる。
「とんでもねーサド観音様だな……。ほんと五嶺様じゃねぇか……」
俺は呆れ、思わず小声で口に出した。
そうだ、五嶺様だ!
記憶のかけらがよみがえる。
真っ青な袴、いい匂いのする扇、髪を束ねる白い紐。
魔法律書、涼やかな声、白い着物。
俺を救ってくれた、手の優しさ。
俺は、急いでそのかけらをかき集め、抱きしめた。
もう記憶はほとんど薄れていて、断片的なイメージしか思い出せない。
「せっかくですが遠慮しときます。望みなんか無いし、俺、もう行かなきゃいけないんで。俺の大切な人が待ってるんです。早く行って安心させてやらないと」
俺が全部忘れる前に行かなくちゃ。
……嶺様の所へいかなくちゃ。
「うるさいねぃ。アタシはお前を救ってやると決めたんだ」
記憶をほとんど無くしかけて焦っている俺の言葉を全く聴かず、サド観音はそう仰った。
俺の目の前で、ホレ! と白い足がつきつけられる。
「慈悲の押し売りですかい? まるでヤクザだ」
「黙ってアタシの慈悲を受け取れ、豚が」
この有無を言わさない物言いに俺は逆らえたためしが無い。良く覚えてないが、でも間違いなくそうだ。
俺は、しょうがないとため息をつき、跪いて両手で恭しく白い足を捧げ持つ。
五嶺様のおみ足なら、百万回キスしてもし足りないね。
指先がうっすらと桜色をしている形のよい綺麗な足に俺は口付けた。
滑らかな肌が俺の唇に触れる。その感触の心地よさに、俺は思わずうっとりとした。
暖かいものが、足に触れる俺の唇から全身へ広がってゆく。
「よーし。お前の望みどおり、胸に開いた穴を塞いでやろう」
這いつくばっていた俺が顔を上げると、五嶺様の顔をした観音様はいたく満足そうな顔をして俺に言った。
キスをした功徳か、俺はずいぶんと無くしていた記憶を取り戻していた。
俺の名は恵比寿花夫。五嶺陀羅尼丸様の忠実なる側近だ。
「いや、俺はいいんで。どうせなら五嶺様がこの先幸せになるとかそういうのにして下さい」
「観音馬鹿にしやがって。お前のちんけな望みなんてお見通しに決まってるだろぃ?」
俺が言うと、観音さまはまた、ぺしっと俺の鼻先を手にした蓮華ではたいた。
「塞いでやるのはお前の胸の穴じゃないよ」
「へぇ……、じゃ誰の?」
「お前のいい人のさ」
そう言って、意味ありげな色っぽい目で、からかうように俺を見る。
「大事なお前がいなくなっちまったせいで、胸に大きな穴が開いてる。行って塞いでやれぃ」
「????」
「お前は死ぬ予定だったんだ。感謝しろぃ」
言葉と共に、観音様はすっくと立ち上がり、なんと池のほとりで跪いていた俺を寛一ばりに思いっきり蹴飛ばした。
「ちょっ……!」
思わず伸ばした手が空を掴み、大きく見開いた目が、五嶺様の顔で微笑む観音様を写す。
視界が反転して、俺は池の中へ突き落とされた。
水の中を俺は沈んでいった。深く深く沈んでいるうちに、沈んでいるんだか浮かんでいるんだか判らなくなった。
沈んでいる間に、一つ一つ、無くしかけてた記憶が鮮明によみがえる。
死ぬ前に記憶が走馬灯のように〜ってのは良く聞く話だが、あんな感じだ。
初めて会った日、死ぬほど怒られた事、会いたくて会いたくてたまらなかった夜。
一つ一つ、懐かしいなぁと大事に思い出し、もう二度となくさないように大切にしまっておく。
やがて、ぼんやりと光が見えた。
きっとあの光のところへ行けば、五嶺様に会える。
五嶺様に会える。
そう思った瞬間。
再び、俺の視界が真っ暗になった。
気がつくと、ぼそぼそと話し声が耳に入った。
再び俺は暗闇の中にいる。でも、さっきまでの上も下もわからない暗闇とは違う感じた。
自分の体の重さを感じる。素肌に触れるのは、ベッドのシーツの感触か?
「私は平気だよ」
五嶺様!
はっきりと聞こえたその声に、俺は歓喜した。
今度こそ、本物の五嶺様だ。
「エビスは、意識不明だ」
帰ってきた。俺は帰ってきたんだ、五嶺様の元に。
ゆっくりと、指先を動かした。
ぴくんと指が動き、そろそろと腕を持ち上げる。
瞼をあけると、薄暗い部屋の天井が映った。
動く。俺は生きてる。
早く、早く声を出さないと。
五嶺様のあの悲しそうなお声、ずいぶん心配をおかけしてしまったようだ。
あんな悲痛な声をこれ以上聞きたくない。
「のう、左近の」
五嶺様は、かすかに動いた俺に気が付かず、携帯で話を続けている。
早く動け、俺の体。
俺は、自分でも凄い意志の力で腕を持ち上げ、呼吸器を取り外した。
「アタシは今まで、一体何を……」
携帯を片手に俯き、力ない言葉を口にしていた五嶺様を俺は必死で呼ぶ。
「ゴリョー……さま」
あまりにも俺の声は小さくて、五嶺様に届くか心配だった。
だが、俺が名を呼んだ瞬間に、五嶺様がばっと俺を振り向く。
五嶺様の驚いた表情。みるみるうちに、目に涙が浮かび、喜色が五嶺様を塗りつぶす。
「大丈夫、やり直せます!」
俺は強がって、でも本気でそう言った。
五嶺様、貴方のエビスは根の国より帰って参りました。
「きっと」
俺は五嶺様に向かって笑った。なぜだろう。状況は最悪なのに、俺の心は妙に晴れ晴れとしていた。
大丈夫、明日がある。俺は五嶺様の側にいる。
五嶺様のお側にさえいれば、俺は何でもできる。これから五嶺様のためにめいっぱい働けるんじゃないか、むしろ幸せだ。
俯いて俺の言葉を聴いていた五嶺様が、ぎゅっと胸元を手で掴んだ。
まるで、胸に大きな穴が開いてたみたいに。
どきんと俺の胸が高鳴った。
「大事なお前がいなくなっちまったせいで、胸に大きな穴が開いてる」
その言葉が蘇る。
いや、そんな、まさか、な。五嶺様が、俺ごときをそんな大事に思ってるはずが……。
いや嬉しいぜチクショー!!!!
思わず顔がにやけてしまいそうになるのを必死に堪える。
もう二度と、五嶺様に辛い思いも悲しい思いもさせまいと俺は心に誓った。神にも、仏にも、もちろんあの五嶺様の顔をしたサドな観音様にも。
一切の恐怖の中にあって衆生を救いたもう五嶺菩薩に帰依したてまつるぜ、マジで。
「ナマイキぬかしおって」
そんな事を言う五嶺様の目にも涙が光ってる。
なんて綺麗なんだろう。
俺が起き上がれたなら、この手で拭って差し上げたのに。
「本当にアホだねぃ……!」
「ははっ!」
泣き笑いの五嶺様が、手にした折り紙の鶴を俺に飛ばす。
鶴は俺の鼻にぶつかり、二人で涙ぐんだまま照れ笑いする。
五嶺様は俺が生きてたことが嬉しくて、俺は五嶺様の元に戻って戻ってこれた事が嬉しくて。
俺は自惚れてもいいんだろうか?
五嶺様そっくりの観音様が仰ってたのは本当だって。
俺が生きて帰ってきた事で、俺の大事な人の胸の穴を塞いでくれたんだって。
終
20080314 UP
初出 20060812発行 世に五嶺の花が咲くなり
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