手続きが済み次第すぐにでもMLSに通っていただく。と山岡に言われたのは、その翌日だった。
こいつは、アタシに霊がつけば払い、なにかあれば小言を言う、父上がアタシに与えた側近だ。
珍しく朝早く起こされ、起きるなり女中に仕度させられる。
アタシは、この家の中でほぼ野放しだった。好きな時間に寝て、好きな時間に起きる。
踊って、書いて、食べたい時に食べて、父上のお側にいる時間だけは拘束されたが、してはいけないという事をしさえしなければ、使用人たちはいつまでもアタシをほっておいていた。
MLSという単語は知っていた。
四月になればアタシもそこへ通うのだとは聞いていたのだが、まだ四月は先だ。だが、山岡は一週間もたたぬうちに安曇野に行って頂く事になると言った。そんな急に言われて、アタシは戸惑った。
「いずれあなたは、お父上の後を継いで五嶺の頭首になるのです。本日はそのお披露目となります」と言われ、アタシは訳がわからず顔をしかめた。
アタシが父上のようになる?
ぴんと来ない。
アタシは、父上とアタシの間には越えられぬ溝があるとはっきり感じていた。
父上は偉大なお方だ、それは間違いない。
だが、アタシには、父上はあまりにも痛みを知らなすぎるように思える。
祖母は、いつも、傲慢になりすぎるとしっぺ返しが来ると仰っていた。今はよくても、父上のやり方は、いつか必ずしっぺ返しが来るにちがいない。
アタシ自身が辛いから良く判る。アタシは、弱いものの気持ちに共感してしまうのだ。
父上は、そんなアタシを弱いと仰る。上に立つものには、時に非情さも必要だ。小を切り捨て、大を生かす。今の弱いアタシではそんな選択は出来ない。全てを救おうとしておろおろするうちに、きっとみな溺れてしまう。だから、父上の仰る事は正しい。
霊の見えるもの同士、しかも親子なのに、これほど離れて感じるのだから、霊に見えるものと見えないもの同士では何をかいわんやだろう。
訳がわからぬまま手を引かれて連れて行かれたのは、大きなホールの壇上だった。
袖から一歩明るい壇上へ踏み出た瞬間、わぁ……っと歓声が上がった。
照らされるライトのまぶしさに一瞬視界を奪われ、アタシは目を閉じた。
次に目を空けた瞬間に見たのは、アタシに向かって叫ぶ、人、人、人。
高い天井からは、大きな布に黒々とした墨で支部名の書かれた垂れ幕が下がっている。
仙台支部、浦和支部、山形支部、博多支部、ああ、向こうなんかかすんで見えない。
その下で、たくさんの人がアタシに向かって口々に叫んでいる。
「五嶺!! 五嶺!!」
「陀羅尼丸さま!!」
アタシは、その熱に驚き、思わず後退りかけた。
どんと背中にアタシをここまで連れてきた山岡の体がぶつかり、アタシは上を見上げた。
「あなたの忠実なる社員たちです、五嶺様」
山岡は言った。
「若様の手足となり、若様のために動き、若様のために血を流す。若様の一言で、命をも懸ける、若様の守るべき社員たちです」
目の前の熱狂の渦に、アタシは熱が出そうだった。
どうして、どうして、こいつらはこんなにも熱くアタシの名を呼ぶのだ? こんなにも信じきった目でアタシを見るのだ?
「アタシは、何も出来ない」
思わず声が震えた。怖くなって、山岡のスーツの裾をぎゅっと掴む。
アタシは父上とは違う。アタシにはそんな事をされる価値など無い。頼られても困る。
「それは違います」
山岡は、落ち着いた声で言い、膝を突いてアタシと目線を合わせた。
「あなたにしか、出来ないのです。五嶺陀羅尼丸様」
「アタシにしか出来ない?」
「そうです。若様の社員たちが、若様のご命令を今か今かと待っている。私達は、若様を必要としているのです」
「アタシを……?」
「さぁ、お声をかけてやってください」
とんと背中を押された。
後のことはよく覚えていない。
アタシの一挙手一投足に熱狂的に答え、アタシの拙い言葉を涙を流して聞く社員たち。
アタシの守るべきもの。
「お前は皆に必要とされているのだから強くなりなさい」と祖母は仰った。
それは、この事を仰っていたのだろうか?
お前たちは、こんなにもアタシを欲してくれている。
「どうかもう一度、貴方が『五嶺様』と呼ばれる事の意味をお考え下さい。その御名を継ぎその御名で呼ばれるのはこの世でただ一人。若様は五嶺家そのもの。若様は我々の希望であり、心のよりどころ。若様は我々にとって、唯一無二の絶対なのです」
そう山岡は言った。
アタシ達はこの世であまりにも弱いマイノリティだ。
生きるためには、強く、狡猾にならなければいけない。
力を隠すのではなく、認めさせ、アタシたちのやり方で生きなければいけない。
私達を導いてください。とお前たちがアタシに懇願する。
ずっと考えていた。
アタシはなぜこの力を得てこの世に生まれたのか。
アタシはなぜ、こんなにも生きるのが辛いのか。
そして、アタシが五嶺の家の頭首となるべく生まれてきた意味を。
辛かったのは、お前たちの痛みを知るため。
五嶺の家に生まれたのは、きっと、お前たちと共に歩めという仏様のお導きだ。
それこそがきっと、アタシの役割なのだ。
父上のやり方が全てではない。
アタシには、アタシのやり方がある。
強くなろう。とアタシは決心した。お前たちを守るために、アタシは強くなる。
父上の強さを手に入れて、アタシはアタシのやり方で、お前たちを導こう。
お前たちの望みは、今アタシを変えた。
「十郎坊、悪いんだけどこの間の話なかった事にしておくれ。なんだかアタシは、社長ってのにならなきゃいけないらしい」
てっきりアタシは一緒に行くのだと思っていたカラス天狗に、アタシはそう伝えた。
アタシの意外な返事に眉をひそめ、十郎坊は口を開く。
「何するんだ、それって?」
「金を儲けたりするんだと」
「お前そんな事してると、ますます汚れちまうぞ?」
十郎坊の言葉に、迷いはあったけど、アタシの心は決まっていた。
「……アタシのような人間は、この世で本当に生き辛い。こんな能力は無いほうが幸せなんだと皆が言うんだ。自分を否定して生きてかなくちゃいけないなんて、辛すぎるよねぃ」
朝見た熱狂の渦を思い出していた。
アタシの言葉に涙を流し、アタシを求める社員たち。
五嶺家のおかげで救われたと口々に言う。
五嶺様は俺達に生きる糧を与えてくださった。五嶺様は俺達に生きる希望を与えてくださった。
五嶺様は光だ。俺達を導いてくださる光だと。
皆口々にそう言い、アタシを信じきった目で「ご命令を」と言う。
「そんな奴らが、大勢がアタシを頼ってくれてるんだよ。捨てられないよ」
「お人よしだなぁ、お前。苦労するぞ」
十郎坊は首をすくめた。
アタシだって判っている。その期待に答える事がどんなに大変か。
何百人もの社員を背負い、アタシの背骨は耐え切れるのだろうか? その不安はもちろんある。
「これが五嶺の頭首に生まれたアタシの運命なら、精一杯やってみせるさ」
アタシは苦笑しながら言い、自信を持って顔を上げた。張ったりだけどねぃ。
そう、これが、アタシの役割なら、五嶺陀羅尼丸の運命なら、やってやろうじゃないか。
楽な道より、難儀な道を選んだ方が人生楽しい。そう思ったんだ、アタシは。
「アタシにすがってくる者たちを見て、考えたんだよ」
逃げ出してきた女を見た時から感じていた、アタシのもやもやが、ようやく固まりだしたのを感じていた。
「こいつらを全部かき集めて、世界最強最大の魔法律家集団をつくろうってねぃ。そしたらさ、きっと、ずっと虐げられてたこいつらも、胸を張って生きていけると思うんだよ。なんせ、世界一だからねぃ」
世界一になれば……だなんて、今から思えば、笑ってしまうほど子供っぽい。
でもアタシは本気だった。
霊が見えるものが、自信を持って生きていけるように。
怯えて俯いていた者達が、胸を張って生きていけるように。
アタシが五嶺の頭首となるべく生まれてきたのは、そのためではないのか?
アタシは、今朝からずっとその事を考えていた。
アタシは五嶺の頭首になろう。どんなに辛くても、一つ頑張ってみよう。自分で決めた道だから、弱音ははかない。
「カネは力だ。アタシには力が要る。アタシの夢の実現のため、そして、アタシの社員を守るためにねぃ」
アタシは金の計算は苦手だが、父上の側で、金の力というものをまざまざと思い知らされていた。
金のために、人生を縛られ、または救われる。金ごときでと思うが、金さえあれば大抵の事は解決するのも確か。
「アタシは、五嶺家の頭首として生きる。その為だったらなんだってするって決めた」
「茨の道を行くか……。男だぜ、陀羅尼丸」
アタシの言葉に、十郎坊は感心するように腕を組んでうんうんと頷いた。
「……大げさだねぃ。アタシは自分の運命から逃げたくないだけだよ」
アタシはちょっと頬を赤くしてそう言い、空を見上げた。
「生まれ持ったこの力、否定したくないし、他の奴らにもさせたくないからねぃ」
見上げた空には、アタシを励ますように月が出ていた。
それがアタシの原点だったんだ。
がむしゃらに前に進んでいるうちに、ちょっと道を間違っちまったみたいで、金を儲ける事に過剰に執着してしまった。
さんざ酷い目にあったけど、改めて初心に戻れたのは不幸中の幸いかねぃ?
今じゃ、アタシに話しかけてくる獣も居ない。
いや、いるかもしれないがアタシはもうそれに気がつく事が出来ない。
闇と交信する力みたいなのは、俗世間にまみれているうちにずいぶんと失われてしまった。
そのかわりアタシには、家族同然の社員達がいる。
アタシに忠実な社員達。アタシの守るべきもの。
そして、アタシを守り支えてくれた。
エビスあたりが、五嶺様は俺達の前からいきなり居なくなってしまいそうで怖い。と言うのを阿呆とたしなめながら、内心でこの豚鋭いねぃと冷や汗かいたりする。
実は五嶺本部が焼け落ちた時もう一度妖のスカウトがきたからねぃ。
心配せずともちゃんと断ったよ。
あの頃と違って、アタシはあまりにもこの世に執着しすぎている。
申し訳ございません。申し訳ございませんと目の前の男が言う。
病魔に冒され、皮と骨にやせこけたこの男は、かつて五嶺家に忠実に仕えてくれた執行人だ。名を山岡と言う。
「天狗さまと若様のお話を私が盗み聞いたのでございます」
病気の身を押して、アタシに土下座する。
アタシは慌ててやめさせようとするのだが、山岡は頑なにアタシの手を拒んだ。私にはもう時間が無い、こうさせてくださいと言う山岡の言葉にアタシは逆らえなかった。
「若様が行ってしまうと、策を巡らせたのでございます」
病魔に蝕まれた執行人の口から、懺悔の言葉が漏れる。
アタシは、山岡の言葉で、なぜ急にMLSへ通わされたのか、なぜ急に社員たちの前へ次期頭首としてお披露目されたのかを理解した。
ああしてアタシを引き止めたのだ。
「天に昇るべき貴方様のおみ足に、餓鬼のようにしがみつき、醜いこの俗世間に落としたのでございます。若様のお優しさに付け込んだのでございます」
あの頃は、きついほどだった山岡の目から涙が溢れる。
「我々は、若様を失う訳にはいかなかった」
血を吐くような苦しい言葉に、山岡がどんなに苦悩していたのかが判り、アタシの胸は痛んだ。
「若様は我々の唯一の灯火。貴方様無しでは、私達は闇の中を永遠に彷徨わなければならなかったのです。若様を謀りはいたしましたが、あの時申し上げた我々の言葉は嘘ではございませぬ。我々の救いを失う訳にはいかなかったのです。若様を謀ったこの罪、地獄で償いまする。ただ若様には、謝っても謝りきれません」
ずうっと胸にしまっていたのであろう、長い懺悔の言葉を聞き届け、「いいんだよ」とアタシは言った。
山岡は、アタシと天狗の話を知っていたにもかかわらずその事を父上には言わなかった。言えばきっと、アタシは父上の逆鱗に触れ、結界を張った座敷牢にでも閉じ込められて惨めな一生を送ったに違いない。
もしアタシが消えれば、責任を取らされるのは山岡だ。父上は厳しく恐ろしいお方、その失態は死をもって償わせたかもしれない。それを知らぬわけではないのに、山岡は主人である父上を裏切ってまでアタシの気持ちを重んじ、公平に道を指し示して選ばせてくれた。
あの頃、アタシの事を大切に思ってくれた人間もちゃんといたのだ。
「長い間、その事を気に病んでいたんだろぅ? ずっと、一人で」
骨と皮に痩せた手を取った。
小さい頃のアタシを守ってくれた手。
「お前一人に重圧を負わせて悪かった。アタシがもっとしっかりしていれば、お前にそんな苦労をかけさせなかったのにねぃ」
幼い頃はあんなに大きく感じた山岡の手をずいぶん小さく感じてしまったのは、アタシが少しは成長したからだと信じたい。
「アタシはお前に感謝すればこそ、恨んだりはしていない。お前は道を示してくれただけで、選んだのはアタシだ」
アタシの言葉に、山岡はほっとしたような顔をした。胸のつかえが取れたらしく、ずいぶんと安らかな顔になる。
「お前はよくやってくれた。もう楽におなりよ」
アタシは手を差し伸べ、山岡の体をゆっくりとベッドに寝かせた。今度は山岡は素直に従った。
病室を出ると、すぐに外で控えていたエビスが椅子からぴょこんと立ち上がり、アタシの後ろにつき従う。
あの時違った選択をしていたら、エビスにも出会えなかった。
真面目に生きてる(反論は許さないからねぃ)アタシに与えられたご褒美だろうか。
たまに、人を捨て、妖となり、魔として一人で自由に生きていたらどうなっていただろう? と想像をめぐらすのはアタシのささやかな秘密だ。
だがあの時の選択を後悔した事は無い。
自分の役割を見つけ、その通りに生きるほど素晴らしい事は無いんだからねぃ。
これからもアタシは五嶺の頭首として、大切な社員たちに囲まれ、アタシの役割を果たし続けるのだ。
終
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