「ママ、ママ……」
かすれた小さな声がうわ言のようにそう言い、苦しいのか時折うっすらと目が開いたかと思うと、またすぐに閉じ、荒い息をする。
トロロの熱い体をゾルルが抱きかかえ、瞬きをする間も惜しいという風にじっと見つめている。
毒を摂取し、血を吐いてのた打ち回った事もある。骨や白い脂肪が見えるほど深く切り刻まれた事もある。
だが、トロロを見ているだけしかできない今の方がよっぽど辛く思えた。
代わって、や……りたい。
そう思うが、それが出来ない以上、ゾルルはトロロの苦しみと同化するかのようにじっとトロロを見つめて動かない。
母親を呼ぶ声に、自分では何も出来ないのかと無力感が襲う。
「ママ……? ゾルル?」
うっすらとトロロの目が開き、焦点の定まらぬ目がゾルルを見てそう言う。
ゾルルが微かに頷くと、トロロがゾルルにそっと手を伸ばした。
「冷たいの……ちょうだい」
その声に、ゾルルがそっと自分の金属の腕を差し出した。その手をトロロの小さな手が掴み、自分の頬へもっていく。
その冷たさもすぐに無くなってしまったろうに、トロロはいつまでもその腕を放そうとはしない。
トロロに必要とされている。
それを感じ、ゾルルの中は言いようの無い幸福感に満たされた。他者に必要とされる事がこんなにも幸せな事だとは知らなかった。誰もゾルルに教えることが出来なかったそれを小さなトロロが教えてくれたのだ。
助けを求める小さな声が聞こえたのは……。
自分が、そうだったから。
何かを思い出しそうになって、ゾルルはゆっくりと瞬きした。
あれはいつだったか、この体になる前に。
いや、この体になってからもずっと。
かぼそい小さな声で、いつも、助けを求めていたから。
これほど求めているのに、答えぬのか?
求めても得られぬのなら、憎む。
俺がどれほど苦しんだのか気付かせてやる……。
ゼ……ロ……ロ……。
なぜか、殺したいほど憎い相手の名を心の中で呼んだ。
違う。
何かを思い出しそうになったのを慌てて記憶の奥に沈める。
片方しかない目でゆっくりと瞬きをしたあと、熱に苦しむトロロの顔を見る。
自分の腕の中にすっぽりと収まる小さな体。自分にすがる小さな手。
ガルルが……、俺に、そうしたように。
お前は……俺が、助けて……やる。
トロロの小さな体を一晩中抱きかかえ、ゼロロはじっとトロロを見つめていた。
「薬だ……」
薄闇の中で毛布に包まり横たわるトロロの口元に、粉薬が差し出される。
「ヤダ、苦いヨ。苦いのヤダ」
ちらっとその薬を見るなり、頭からすっぽり毛布をかぶって横になったトロロがそう言って嫌々する。
「飲め……」
ゾルルが毛布を引き剥がし、トロロの体をがっちりと捕まえ、口の中に無理やり粉薬を入れる。
「やだって言ってるでショ!」
大きく叫んだせいで、トロロの口の中に無理やり入れた粉薬が、ばふっとゾルルの顔面を直撃する。
「…………」
「苦っ! もーやだ、バカ!」
ぺっぺと口の中の薬を吐き出し、ゾルルに悪態をつく。
無言でゾルルが顔を拭い、再びトロロの体を捕まえる。
「ヤダヨ〜〜〜〜!」
ゾルルが何をするつもりなのか察したトロロが大きな声を上げて暴れるので、ゾルルの動きが止まった。
ここで大声を出されては見つかってしまう。
「…………」
どうやって薬を飲ませればいいのか考えあぐねて無言でいると、トロロがゾルルを見上げた。
「ジュース飲みたいヨ!」
だいぶ良くなってきたのか、我が侭を言う余裕が出てきたようだ。だがまだ熱は高い。
ここへ連れてきた当初は、苦しそうに喘ぐか、ママ、ママと泣きじゃくるばかりだったので、それに比べるとずいぶんましだ。
「ジュース、ねぇ、ジュース飲みたいってば、ハンバーガー食べたい! 持って来てよ!」
トロロも自分でも我が侭を言っているのは判っている。ゾルルを困らせたいのだ。
「判……った」
だが、ゾルルはトロロが予想していたように我慢しろと宥めるのではなく、軽く頷いた。
「え?」
トロロが瞬きする間に、ゾルルの姿はもう消えていた。
我が侭言わなきゃよかったヨ……。
しばらく一人にされ、トロロが不安になり始めた頃、ゾルルが戻って来た気配にトロロの不安そうな顔がぱっと輝く。
ゾルルの手には、パックのジュースがいくつも抱えられており、どさどさっとトロロの前に落とされる。
しかも、どうやって調達してきたものか、トロロの好きなファーストフード店のハンバーガーとジュースまである。
やったー! と喜んで紙コップにストローのついたファーストフード店のジュースを受け取ったトロロの手から、さっとジュースが取り上げられた。
ゾルルの手によって、フタを空けられ、トロロが判らぬほどの早業で薬が入れられた。容器ごと軽く振った後、またトロロに手渡す。瞬きする間の出来事だった。
「美味い……か?」
「うん! ゾルルって役立つよね、プププ」
大好きなファーストフード店のオレンジジュースを飲めて上機嫌なトロロを見て、ゾルルが喉の奥から声を漏らした。
「……くくくっ」
信じられない事に、それは笑い声だった。
オレンジジュースに粉薬を混ぜた事も知らず、無邪気に喜んでいるトロロを見て笑ったのだ。
「ナニ? ヤナカンジー!」
全く気がつかずに、笑われた事に眉根を寄せて不愉快を表しながら、トロロが散らばったパックジュースやハンバーガーを見て急に不安げな顔になる。
「ゾルル、お金なんて持ってないでショ? これどうしたんだヨ?」
「盗っ……た」
「だろうと思ったヨ……」
予想通りの答えに、一瞬トロロが黙った。自分の我が侭のために、ゾルルは危険を冒したのだ。まあ、ゾルルにとってそれは、心が痛むわけでも危険な事でもなかっただろうが。
お腹が減っていたのでハンバーガーをあっという間に平らげると、ようやく自分がいる場所を落ち着いて見回す。
うねうねとした空気ダクトや電力ケーブルが無尽に走っているここは素敵な住まいとは言えなかったが、けっこう広くて居心地が良さそうに思えた。
ゾルルが開けたのぞき穴にそーっと目を近づけると、行き来する人たちや、見慣れた人物が机に向かっているのが見えて妙におかしい。
ここは、射撃訓練はしなくていいし、トロロに小言を言う人もいない。好きな食べ物は手に入るし、大好きなゾルルといつも一緒にいられる。
「ボク、ゾルルのことダイスキだヨ。だからもうちょっとここでゾルルと一緒にいてあげるヨ」
そう言って、トロロがぎゅっとゾルルに抱きついた。
不意に抱き付かれ、ゾルルが戸惑う。
恐る恐る腕を回し、金属の手でそっとトロロの体を抱きしめると、トロロがもっと嬉しそうにゾルルに抱きつき、得意そうな顔をして笑った。
「ねぇ、ここって、あそこでショ? ゾルルも凄い場所選んだね、プププ」
心底楽しそうにそう言い、ゾルルの膝の上に寝転がる。
「次はドーナツ食べたいヨ!」
ゾルルの膝の上に寝転がりながら、手を伸ばしてゾルルの顔に触れ、無邪気にトロロがそう言った。
秩序も何も無い。道徳も常識も関係ない。子供と狂人、二人だけの世界。
空気ダクトと電力ケーブルにかこまれたそこは二人にとってエデンの園だった。
アダムとイブのように、善悪を知らず、パラダイスロストの時が来るその日まで無邪気にただお互いだけを見ている。
だが、二人の奇妙な共同生活は唐突に終わりを告げる。
エデンから二人を追い出すケルビムがついにやってきたのだ。
「さて、こんな所にいたとはな。私の命令は丸聞こえだったというわけか」
ガルルの金色の瞳が闇に光るのを見て、トロロはごくりと息を呑んだ。
ガルルの見据える先にいるのは、刃を構えたゾルルの無機質な目。
ガルルが二人を見つけ、二人が身を潜めていたのは、ガルルの執務室の上だった。
執務室の天上裏に昼間は身を潜め、夜になってからトロロを連れてあちこち出歩く。
ガルルの発する命令はゾルルに筒抜けだったのだ。
人一人を隠すと言うのは、並大抵の事ではない。
ガルルの厳しい目をかいくぐり、今までそれが可能だったのは、まさにその場所にいたから、ゾルルだからこそできたことだった。
ゾルル一人ならばいくらでも身を隠す事が出来ただろう。だが、ちょこまかと落ち着かないトロロを伴っては、ガルルの目を誤魔化すことは出来なかった。
「盲点だった」
「近づ……くな……」
見つかったのは、トロロがたてた不用意な音がガルルの耳に入ったからだった。常人ならば気にせぬ、いや、聞こえぬほどのその雑音で、ガルルは全てを悟った。
設計図を取り寄せ、自分の執務室の上に手ごろな空間があると知ったとき、ガルルは人払いをし、一人でここへやってきた。
「トロロを奪い……に来た、のだろう?」
近づいて来るガルルに、本気の目をしたゾルルが刃を構え殺気を放つ。ゾルルと一対一でまともに戦えば、ガルルといえども無事ではすまない。
「トロロを渡せ、ゾルル」
「い……やだ」
「その子はお前の玩具ではない!」
「俺が、治す……」
「その子は巣から落ちた小鳥や足を折った子猫とは違うのだぞ!」
ガルルが聞き分けの無いゾルルにぴしゃりとそう言った。
「いいから、返せ。トロロの母親が半狂乱になっている。返してやれ」
諭すようにそう言うと、ゾルルの動きがぴたりと止まった。
母を求めて泣きじゃくるトロロの顔が思い浮かぶ。
ゾルルが抵抗する気を無くしたのを悟ったゾルルが、ゆっくりと二人に近づく。
「…………聞き分けてくれて私も嬉しい」
そう言ってガルルが動かぬゾルルの肩にぽんと手を置いた。
その言葉に、ガルルがゾルルと戦ってでもトロロを取り戻すつもりだったというのが伺えた。
ガルルは必要な犠牲を払う事を恐れぬ男だ。だが闇雲に危険を犯す男ではない。自分にとってもゾルルにとっても最悪の事態が回避された事にホッとする。
ガルルがゾルルの体の後ろに庇うように隠されていたトロロを覗き込む。
「トロロ、大丈夫か?」
「ガルル……」
悪戯を見つかった子供の顔で、ばつが悪そうにトロロがガルルの顔を見る。
「うんもう平気だヨ」
「すまない事をした。まさかゾルルがこんな事をするとは……。私の監督不行き届きだ。謝罪する」
「ううん、楽しかったヨ」
最初は連れてこられた。だが、途中からは、自分の意志でトロロはゾルルと一緒にいる事を選んだのだ。
いつまでもこんな事が続くわけがないと判ってはいたが、終わりが来るのは寂しく、怒られるのは怖かった。
「ママ、心配してた?」
「とても」
「ゾルル、怒られるの?」
「……ああ」
「凄く?」
恐る恐るそう聞くトロロに、ガルルが頷いた。
「凄く。君のママが怒っている。人に危害を加えるようならゾルルをこのまま野放しにはできないと軍も……」
「ダメだヨ! ダメ! ゾルル怒っちゃダメだってば!」
ガルルの言葉に、トロロが反射的に叫んだ。ゾルルの体にしがみつき、涙目になってきっとガルルを睨みつける。
「ジュースとか盗ってきちゃったのも、ボクが我が侭言ったからなんだヨ、ゾルルは悪くない。悪くないんだってば。ネェ、聞いてる?」
いつもなら悪戯をしては「ボクは知らないヨ、プププ」っと言って逃げ出す子供が、自分が悪いとゾルルを庇い、必死にガルルにゾルルを怒らないで欲しいと訴えている。
「ゾルルどっか行っちゃうのヤダヨ。一緒にいる!」
そのまま、ぎゅうっとゾルルにしがみつき、意地でも離れないぞと鉄の意思を見せる。
そのトロロを、ゾルルが困ったように見ていた。
「お前達……。いつの間にそんなに仲良くなったんだ? まるで恋人同士じゃないか……」
ガルルの呆れたような言葉を残して、この騒動は幕を下ろしたのだった。
ガルルが尻拭いに奔走し、トロロは必死にママを宥める中、騒ぎを巻き起こした張本人のゾルルは冷たい牢に閉じ込められていた。
出ようと思えば出られた。ただしそれは看守やたくさんの人を犠牲にした上でだが。
だが、ゾルルはぴくりとも動かず、再びゾルルが迎えに来るまで暗がりの中で息を潜めていた。
失いたくないものがあるから。
誰彼構わず噛み付く狂犬のような男が、じっと我慢している。そのゾルルの姿は、ガルルをいたく感動させた。
やがてガルルが事を上手く繕い、再びあたりをふらつくようになったゾルルの姿を見て、人々がひそひそと話しをする日常が戻った。
ただ一つ変わったのは、時折ゾルルが一人ではなく誰かと一緒にいる事だ。
風よりも早く走るゾルルの背にしがみつきながら、楽しそうに笑うトロロの姿を見て、ひそひそとゾルルのことを話していた人々は顔を見合わせた。
騒ぎが収まってから数週間後。
定例会議の席で、資料に目を通している間の静まり返った時間。
コホッ。
沈黙を破り、微かな咳が聞こえた。
「失礼。少々風邪気味で」
ガルルがそう言って、また小さく咳をした、その瞬間。
パキィン! という窓ガラスが割れる高音と共に、銀色の影が会議室に飛び込んできた。
キラキラと室内の人工的な光を反射しながら降り注ぐガラスと共に机の上に降り立ったのは、壊れた心と機械で出来た、狂気を纏った殺戮者。
感情の伺えない無機質な瞳にガルルを映しながら、じりっと近づく。
「あ、ゾルル、だ、大丈夫だ、私は大丈夫だ」
額に汗をかき、ゾルルを宥めるようにそう言いながら、ガルルが席を立った。何とか逃げようと、じりじりと後退する。
「だから、うわっ!」
ガルルのいう事に聞く耳持たず、さっと銀色の影がガルルの体を攫う。ガルルの体を軽々と横抱きにして、信じられぬ跳躍力で窓の外へ飛び出す。
あっという間の出来事だった。
まるで海賊に攫われるお姫様のようなシーン。
あっけに取られていた皆が、ようやく事態に気がつきざわつく。
「大変だぁ〜〜、ガルル中尉殿が攫われたぞ!!」
その声を後に残し、紫色の体を抱えた銀色の影が闇へと消えていった。
ENDE
20050421 UP
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