炎昼、鬼一口
夏の日差しを大木が遮って、気持ちのよい影をつくる。
涼をもとめて縁側へ腰掛け、はらりと開いたヤッセンスで風を送る。その隣に虫あみと虫かごを手に駆けてきた白い子狐が勢いよく座ると、炎昼に荷葉の衣香が、蓮に似せた夏の香りがふわっと広がった。
「ヤッセンボー様、見てください」
くぐり狐たちが暑さを心配して被せた麦わら帽子を取るのももどかしく、コンコンは隣に座るヤッセンボーに、セミを詰め込みすぎて真っ黒になった虫かごを差し出した。
ダンディで雅で虫が触れないヤッセンボーは、う……と小さく声を上げかけたが、辛うじて飲み込む。
「セミがいっぱい取れました!」
「お、おお。よく頑張ったのぅ……」
半ば固まりかけているヤッセンボーに褒められて、うふふふふとコンコンは嬉しそうに笑う。無邪気なものじゃとヤッセンボーにも笑みがこぼれた。虫かごにみっしり詰まったセミを見たダメージも癒やされると和んでいると、コンコンはおもむろに虫かごからセミを取り出し、満面の笑みのままピンク色の口の中にぽいっと放り込んだ。
あどけない顔でむしゃむしゃしている野生味あふれるコンコンは、妖力なしに「マッキレコンソワカ」の真言の威力を発揮した。
「〜〜〜〜〜〜〜ッ!!!!!」
ヤッセンボーが声にならない悲鳴をあげて座ったまま空中に三センチほど飛び上がる。悲鳴も、逃げ出したい衝動も、コンコンを傷つけまいという優しさで堪えた。
ヤッセンボーがギリギリであることなどつゆ知らぬコンコンが、虫かごに手を入れてセミをもう一匹つまみ出す。
「ハイッ、ヤッセンボー様の分!」
両手でセミを差し出している、かわいいかわいいコンコンが白い悪魔に見え、今度こそヤッセンボーは完全に固まった。
狐のように、我にセミを食べろと。
つまり、そういうわけじゃなコンコンよ。
幻魔神狐ヤッセンボー、このかごんまの地に生まれ出でてより、これほどの危機があったであろうか。
音には人一倍敏感なはずなのに、セミの声がやけに遠くに聞こえる。息が苦しくなり、襦袢の下を汗が幾筋も伝う。
これは神罰に違いない。コンコンと狐一族へ隠し事をする我に罰が当たったのじゃ。
遠くなりそうな意識の片隅でそんなことを考えた。
それとも、くぐり狐を足蹴にしたアレか? それとも我がままを言ったアレかもしれぬ。いや、犬コロのお八つを横取りしたのが一番怪しいか……?
これまでの悪事が走馬灯のようにヤッセンボーの脳裏を過ぎる。
「我にも、く、くれるか、コンコンよ。そなたはまっこと、優しいのう……」
ヤッセンボーの気力は限界に達し、口から出てくる言葉は反射に近い。
「セミはおいしいです。きつねはみんな、大好きです」
「うむ、そうじゃな。狐はな」
「だから、ヤッセンボー様にもあげます」
大好きな人に喜んでほしいという、コンコンの純粋な優しい思い。
今はただ、コンコンの優しさが血反吐が出るほど辛すぎる。
コンコンの白い手の上で、苦し紛れのセミがジージー鳴いている。
まずい。
目の前の景色が陽炎のようにゆらっと揺れる。
聞き分けのよいお利口ヒーローよとなめきって、さんざ隼人を煽って押し倒された時よりまずい。
絶体絶命の危機にいるヤッセンボーの本能が逃げ道を求めて記憶を探り、はっと我にかえる。
いや、あの時も逃げおおせたではないか。
飢えて殺気を放つ黒豹を引き下がらせた我が知略と口先三寸の力、今使わずどうとする。
「いや、我に遠慮せず、そなたが食べるがよい。好物なのであろう?」
首をかしげてにっこりと笑うと、優雅にヤッセンスで風を送る。
「美味しいものはヤッセンボー様と食べたいんです」
コンコンはそう言い張り、かわいい事を言うと嬉しくなったが、その要求はセミを食えである。
「そなたとセミを食べたいのはやまやまじゃが。我はその……、セミ断ちをしておるのでな」
「えっ、セミ断ち?」
聞いた事のない単語にコンコンが目を丸くしてヤッセンボーを見上げた。そんな単語は数百年生きてきたヤッセンボーも初めてなので、コンコンが不思議に思うのも無理からぬこと。
「我が悲願を果たすため、神仏に願掛けをしておるのじゃ。かごんまじんどもを恐怖のどん底に叩き込むまでは、けしてセミを口にせぬと」
「さすがヤッセンボー様!」
もっともらしそうでいて全くそうではない言い訳をコンコンは素直に信じた。また一つ嘘を重ねてしもうたとヤッセンボーの胸が痛んだが、セミ断ちではなく虫全般禁止にすればよかったとすぐに後悔する。特にあの、黒くてつやつやかさかさしているあまめでも持ってこられた日には今度こそ理性が持たない。
「良い事を思いついたぞよ。セミが食べられぬ無念を晴らすために、今夜は高級黒豚しゃぶしゃぶじゃ〜!」
「わーい! やったぁ!」
コンコンの熱狂的な支持を見てヤッセンボーが心から安堵する。生きたセミを食べずに済むなら一万五百円など安いものだ。
「これコンコン、セミでお腹がふくらまぬよう、逃がしてやるがよい」
「……はぁい」
さりげなく促すがコンコンは見るからに不服そうだ。セミへの未練いっぱいの顔で虫かごをあける。
これはまずい。悪い予感がする。
「行って行って、早く早く! コンコンに食われる前にみな逃げるのじゃ〜」
扇子を持った手を行け行けというように振り、飛び去るセミに発破をかけていると、ヤッセンボーの悪い予感は的中し、逃げ遅れたトロいセミをコンコンが電光石火の動きではしっとつかむ。
「あっ、やめ……、やめるのじゃコンコン! お腹がすいておるのなら、ほら、我の秘密のポッケから出てきたげたんはがあるぞよ!」
必死すぎる幻魔神狐に思わず気をとられ、コンコンの手が緩んだ隙にセミが逃げる。
危機一髪であった……!
ヤッセンボーの心に平穏が戻り、安堵のため息をつきながらげたんはを一つつまんでコンコンに差し出した。
「ほれ、口をあけよ」
「あー」
ヤッセンボーに食べさせてもらったげたんはをもぐもぐしていたコンコンは、「おいしいなー、おいしいなー」と呟きながら足をぶらぶらさせていたが、急にぴたりと動きを止め、ヤッセンボーを見上げた。
「ヤッセンボー様、セミより黒豚のほうが美味しいです。黒豚断ちをしたほうが、神様はお願いを聞いてくれると思います」
コンコンの子供らしい突拍子の無さが、嘘を重ねる大人を追い詰める。
「あー、うむ。我くらいになるとな、願掛けはセミで十分なのじゃ」
「さすがヤッセンボー様!」
黒豚が食べられなくなるのは困るゆえ我はまた嘘を重ねてしまったと、コンコンのキラキラした瞳に耐えきれず、ヤッセンボーは思わず目を逸らした。
みょんみょんとスマホのコール音が鳴ったのをこれ幸い、袂から取り出すと相手も確かめずに通話を押す。
「なんじゃそなたか、隼人」
どうせ、うんまか薩摩料理の店を見つけたとかそんな要件だろうと高をくくり、スマホごしに聞こえてきた声に呑気に返す。
セミの生食という危機を乗り越え油断しきっているヤッセンボーの余裕を、隼人がいい声で奪い去る。
「ヤッセンボーどん、高級ホテルち、ペニンシュラ東京ちゅうホテルの一番広かスイートでよかど?」
「なぬ!?」
隼人の言葉に魂消るヤッセンボーの胸に、ズキリと甘い痛みが広がる。
「ヤッセンボーどん、おまんさぁ、忘れ……」
「いや、忘れてはおらぬ」
ヤッセンボーは隼人の言葉を遮り、空いた手で思わず袴を掴み皺を作る。
そう、我は隼人の奴に確かに言うた。
涙目で、頭上で押さえつけられた両手を白煙之襟巻で縛られた不自由な体で、子供のように身勝手に恥知らずに、そなたとの初めては高級なホテルでないと嫌じゃ嫌じゃとみっともなく駄々をこねた。
あっさり引き下がったのは、呆れて興が冷めたのだろうと思っていたが。
こやつ、本気であったのか!
胸の甘い痛みは疼きに変わり、押さえつけられた隼人の手の力強さを思い出す。
隼人の鷹揚さに甘え、性質の悪いじゃれ付きをした己の酷い行いに怒ったのかと身を竦めたが、隼人の手から伝わってきたのは、ひりつくような飢えと、ヤッセンボーを求める、その剣のようにまっすぐで熱い想い。
なのになぜ、逃げてしまったのか。
別に清らかな乙女でもなし、お互い気持ちよくなれるのだから、立ち合いを楽しむのと同じではないか。
まさかと戸惑いうろたえる中、自分を偽る余裕もなく、隼人が欲に流されて自分を求めるのは嫌だととっさに思ったのは本音。それは、ただの我侭なのか、それとも。
それとも、我は、隼人を……。
突き詰めた先にある答えが怖くて出せない。
無言を貫くヤッセンボーに埒が明かぬと思ったのか、隼人が言う。
「ヤッセンボーどん、今何処に居っど? おまんさぁの顔を見て話したか」
「そんな、急に会いたいと言われても我にも都合というものがじゃな……」
ごにょごにょと言葉を濁すと、ヤッセンボーの言葉を聞いたコンコンが顔を上げた。
「隼人ー! 今日の晩御飯は黒豚しゃぶしゃぶだぞー! 隼人も来るがー?」
ヤッセンボーが愚図愚図している間に、優しいコンコンが電話の向こうの隼人を呼んでしまう。
「おう!」
隼人の笑った気配を余韻に残したまま、ヤッセンボーは通話を終了したスマホを片手に思わず床に身を突っ伏す。
鬼が来てしまう。
手首を縛る白い襟巻きを解いたのは、全身を雁字搦めに縛るために。咥えたあぎとから逃がしたのは、慈悲深く一口で食らうために。
逃げおおせたなど、とんだ思い込みであったとヤッセンボーは悟った。
そして再び鬼が食らいつく。
背筋を這い上がる恐怖と期待で心が千々に乱れる。投げ出した白い手が力なく床を引っかき、コンコンが心配して顔を覗き込む。
心ここにあらずといったヤッセンボーが、ぼんやりコンコンを見ている。
「ヤッセンボー様……」
コンコンが小さく呟いた。
なんだか、すごく綺麗。
胸がドキドキして、もっと見ていたくて、壊してしまうのが怖くて呼ぶ声も小さくなってしまう。
「コンコン」
「はっ、はい」
「我は少し考え事をするゆえ、そなたにお使いを頼むぞよ。くぐり狐衆に準備を申し付けるがよい」
「はい、ヤッセンボー様」
頷いて立ち上がり、くぐり狐たちのいる母屋へ向かったコンコンは、もう一度ヤッセンボーの姿を見たいという思いにかられて振り返った。
糸の切れた人形のように横たわるヤッセンボーの細い腰に、色の白さ。コンコンの心に焼き付けられる。
ヤッセンボー様は、とても偉くて強いのに、どうして抱きしめて撫でてあげたくなるのだろうとコンコンは不思議に思った。
終
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